長文集  5月4週  ○樹木は生命の危険を感じると  na-05-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:12:55
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 南博人(ひろと)は従順な子であり、いた
ずらっ子でもあった。先生に反抗らしい態度
に出たことは一度もなかった。しかし彼は、
そのとき、先生が言った最後の言葉に疑問を
持った。ひとりで山へ入ったならば、自力で
頂上へ出ることは困難であるということに嘘
を感じた。札幌の郊外にある藻岩山は、彼が
生まれた時から馴れた山だった。道をそれて
も、上へ上へと登っていけばやがては頂上へ
出られる筈である。それは小学校五年生の理
屈であった。
「おい、南どうした」
 列が動き出しても頂上の方も見詰めたまま
突立っている南に不審をいだいて隣の少年が
話しかけた。
「おれは、山の中へ入る。先生に言うなよ、
言ったら、げんこつくれてやるぞ」
 南の受持ちの先生のあだなはげんこつ先生
である。悪いことをすると、げんこつをくれ
るからである。南はげんこつ先生の真似をし
て、隣の少年をげんこつでおどかしてやぶの
中へ飛びこんだ。やぶの中を頂上まで登る気
はなかった。道をそれたら、頂上へ出られな
いという先生のことばが、ほんとうか嘘かた
しかめたかったし、同時に彼は山の中がどん
な構造になっているかも知りたかった。彼は
クラスで走るのは一番速かったから、五分や
十分の道草を食っていても、直ぐ追いつける
自信があった。それにげんこつを見せた以 
上、誰かが先生に告げ口をするということは
まず考えられなかっ た。彼は餓鬼大将だっ
た。
 彼はやぶへ入った。木が密生している間を
かいくぐっていくと、木の芽の強い芳香が彼
の鼻をくすぐった。彼は幾度かくしゃみをし
た。くしゃみが誰かに聞えはしないかと、耳
を済ませたが、もう少年たちの足音は聞えな
かった。
 彼はにっこり笑った。たいへん面白い考え
が浮かんだからであ る。少年たちは六十名
いた。彼等が先生に引率されて頂上に達する
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までに、先廻りをして頂上に行ってやろうと
いう野望を起した∵のである。先廻りをした
罪で、げんこつ先生に一つぐらいげんこつを
頂だいしてもかまわないと思った。
 彼は森の中を頂上目がけて登り出したが、
道のないところを登ることがいかに困難であ
るかを知ると、彼自身のやっていることが、
かなり冒険であることに気がついた。
 彼はもと来た道へ引き返そうとして、そっ
ちの方へ移動したが、道らしいものはなく、
いよいよ樹木の深みにはまりこんでいった。
彼はひどくあわてた。彼は幾度か叫ぼうとし
たが、声は咽喉で止った。彼は眼に泪をため
た。先生のいうとおりだとすれば、さっき彼
がたてた理屈がおかしくなる。頂上は一つだ
、登っていけば必ず頂上に行き当る筈だ。
 彼は気を取り直した。道を探すことはやめ
て、一途(いちず)に頂上を目ざして直登(
ちょくと)していった。必ず頂上があると思
いこんでいれば、道に迷ったことも、朋輩た
ちと別れたことも、先生に叱られることも、
少しも怖くはなかった。
 高い方高い方へ登っていくと、少しずつ明
るさが増して来ることが彼にとって希望だっ
た。明るさが増して来ることは、頂上に近づ
いていることだとは分らなかった。やがて彼
は道とも踏み跡ともつかないものに行き当っ
た。そこを登っていくと、ややはっきりした
山道に出会い、そこから頂上までは楽な登り
だった。
 げんこつ先生は真青な顔をして待っていた


(新田次郎「神々の岸壁」)∵
 【1】樹木は生命の危険を感じると早く子
孫を残さなければと多くの種子をつける。実
際、柿の実やどんぐりが豊作になるようにと
子どものころ木の幹を思いっきり蹴飛ばした
経験がある。
 戦後せっせと植えたスギも、林業が儲から
なくなって手入れがされなくなった。【2】
とくに間伐がされていないスギ林は、スギ同
士の過酷な生存競争でひょろひょろな木とな
り、ストレスが大きくなっている。こんな環
境によって、スギの木も生命の危険を感じ、
種子をたくさん残そうと雄花をたくさん付け
、花粉を大量に撒き散らしているということ
なのではないだろうか。
 【3】九州の熊本から九州自動車道を南下
すると、八代インターチェンジを過ぎてから
道路は山間に分け入っていく。多くのトンネ
ルと急カーブが続き、全長約六キロメートル
の肥後トンネルを抜けると、九州で有数の林
業地である人吉盆地に入る。【4】道路の両
側は急峻な山地が空を狭め、森林が天に伸び
ている。しかし、近 年、その風景に変化が
現れている。何気なく通る多くの人たちは気
付くことはないのかもしれないが、職業柄、
私にはどうしても気になってしまう。【5】
それは、至るところでかなりの面積にわたり
森林が伐採されていることだ。戦後、せっせ
と先人たちが植林したスギの林がようやく伐
採できるまでになって、利用されるようにな
ったという意味では好ましい現象だが、問題
なのは、伐採された箇所に植林された形跡が
ないことだ。
 【6】私たち、森林・林業にかかわるもの
からすれば、「伐( き)ったら植える」が
常識である。しかし、今やこのような常識が
常識でなくなってきている。それどころか、
これら植林放棄地の状況をみると、森林所有
者が森林を土地ごと手放すケースが増えてい
る。【7】これは、森林を買う木材生産業者
が、木材価格の下落に伴い、採算性を維持す
るためにより大きな面積の森林を買い入れよ
うとする意∵向があり、これが森林所有者の
森林を所有することへの負担感と相まって、
土地ごとの売却を後押ししているようだ。
 【8】日本の文化は森と木の文化であると
いわれる。
 森林に恵まれた国土で、その資源を巧みに
利用してきたというのは当たり前だが、とく
に日本では、森林を形づくる樹木の種類が豊
富であることから、樹(じゅ)種の違いによ
る木材の性質も様々であり、その違いを上手
に使い分けてきた。【9】住まいや身の回り
の道具に至るまで、こんなものにはどの木を
使うという知恵は、すべての人がもっていた
。お櫃にコウヤマキ、まな板にイチョウ、つ
まようじにはクロモジ、下駄やたんすはキリ
、家の土台はクリなどだ。【0】
 また、木材を無駄なく使うということにも
意を用いてきた。まさに、日本人は木ととも
に生き、木によって生活を維持し、木の上手
な使い方をあみ出してきた民族である。
 しかし、ここ数十年、木の文化は急速に失
われつつある。安価で均質に大量生産できる
石油化学製品などの代替品が私たちの日常に
氾濫するようになったからだ。木材にしても
、外国からやってくるものが八割以上を占め
るようになっている。このままでは、日本の
木の文化は、文化財や美術品などの特殊な伝
統文化に残されるだけになるのかもしれない

 こうなると、国内の木材はますます使われ
ず、価格も下落していくだろう。結果、国内
の森林を守ってきた林業も立ち行かなくな 
る。そして、間伐などの手入れもされず森林
の放棄が拡大していくことになる。
 私たちにとってなくてはならない森林が、
今、危機に瀕してい る。

(矢部三雄『恵みの森 癒しの木』(講談社
+α新書)より)