1. 【1】
私は小さい
頃、家の近くを流れる
渡良瀬川から大切なことを教わっているように思う。
2.
私がやっと泳げるようになった時だから、まだ小学生の
頃だったろう。ガキ
大将達につれられて、いつものように
渡良瀬川に泳ぎに行った。【2】その日は、
増水していて
濁った水が流れていた。流れも速く、大きい人達は向こう岸の岩まで泳いで行けたが、
私はやっと犬かきが出来るようになったばかりなので、岸のそばの浅い所で、ピチャピチャやって、ときどき流れの速い川の中心にむかって少し泳いでは、引き返して遊んでいた。【3】ところがその時、どうしたはずみか中央に行きすぎ、気づいた時には速い流れに流されていたのである。元いた岸の所に
戻ろうとしたが、流れはますます急になるばかり、
一緒に来た友達の
姿はどんどん遠ざかり、
私は、必死になって手足をバタつかせ、元の所へ
戻ろうと
暴れた。【4】しかし、川は
恐ろしい速さで
私を
引き込み、助けを
呼ぼうとして何
杯も水を飲んだ。
3. 水に流されて死んだ
子供の話が、頭の中をかすめた。しかし、同時に頭にひらめいたものがあったのである。それはいつも
眺めていた
渡良瀬川の流れる
姿だった。【5】深いところは青々と水をたたえているが、それはほんの一部で、あとは白い
泡を立てて流れる、人の
膝くらいの浅い所の多い川の
姿だった。たしかに流されている所は、
私の
背よりも深いが、この流れのままに流されていけば、必ず浅いところに行くはずなのだ。【6】浅いところは、
私が泳いで遊んでいたあの岸のそばばかりではないと気づいたのである。
4.「……そうだ、何もあそこに
戻らなくてもいいんじゃないか」
5.
私はからだの向きを百八十度変え、今度は下流に向かって泳ぎはじめた。【7】すると、あんなに速かった流れも、
私をのみこむほど高かった波も静まり、毎日
眺めている
渡良瀬川に
戻ってしまったのである。下流に向かってしばらく流され、見はからって、川底を
探ってみると、なんのことはない、もうすでにそこは
私の
股ほど∵もない深さの所だった。【8】
私は流された
恐ろしさもあったが、それよりもあの
恐ろしかった流れから、
脱出できたことの喜びに
浸った。
6.
怪我をして全く動けないままに、
将来のこと、
過ぎた日のことを思い、
悩んでいた時、ふと、
激流に流されながら、元いた岸に泳ぎつこうともがいている自分の
姿を見たような気がした。【9】そして、思った。
7.「何もあそこに
戻らなくてもいいんじゃないか……流されている
私に、今できるいちばんよいことをすればいいんだ」
8. その
頃から
私を
支配してた
闘病という
意識が少しずつうすれていったように思っている。【0】歩けない足と動かない手と向き合って、歯をくいしばりながら一日一日を送るのではなく、むしろ動かないからだから、教えられながら生活しようという気持ちになったのである。
9. 東山
魁夷画伯の書かれた本を読んでいた時、
画伯も少年の
頃、海で波にさらわれ、
似たような体験をされたことを知り、
非常に
感激した。そして、なにげなく読みすごしていた
聖書の一節が心にひびきわたった。
10.「あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実なかたですから、あなたがたを
耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、
耐えることのできるように、試練とともに、
脱出の道も
備えてくださいます。」(コリント人への手紙第一 十章十三節)
11.(星野
富弘著「四季
抄 風の旅」より」