a 長文 7.1週 mi
 野生の動物は、いつもたくましく生きている。ペットの動物たちとは違いちが 、常にらんらんと目を輝かかがや せ、獲物えものを追い求め、あるいは獲物えものとなることから逃れのが 、自分たちの子孫を残すために精一杯せいいっぱい生きている。この情熱的な生き方を、私たち人間も、もっと見直す必要があるのではないだろうか。
 その理由は第一に、情熱的に生きることが、人間にとっても本当の喜びにつながると思うからだ。数年前、家族で山に登ったことがある。山頂近くにある山小屋に泊まると  予定だったが、途中とちゅうの山道で雨が降り始め、やがて大雨になった。全身ずぶ濡れ  ぬ になったまま歩くこと数時間、やっと山小屋にたどり着き、冷え切った体を乾かしかわ  、お湯を沸かしわ  て紅茶を飲んだ。そのときの一杯いっぱいの紅茶は、生き返るという言葉がぴったりするような味だった。クーラーや暖房だんぼうの効いた部屋で、気に入った音楽を聴きき ながらゆっくり飲む紅茶とはまた違っちが た、生きている実感のわく味だった。情熱的に生きるということを考えるとき、この山登りと紅茶の味を思い出す。
 第二の理由は、情熱的に生きることによって、自分の持ち味を十分に発揮した生き方ができるということだ。戦国時代という下剋上げこくじょうの激しかった時代は、日本人がだれでも自分の実力で生きていかなければならない時代だった。その時代に生きた戦国大名たちは、現代から見るとそれぞれ個性に溢れあふ 魅力みりょくある人物に見える。よく、信長、秀吉ひでよし、家康の三通りの生き方を人間の生き方の三つの代表的な類型とすることがある。そこに見られる個性は、その三人が、地図も道もない言わば野生の世界で、自分の手で道を切り開いて生きるために、持ち味を生かさざるを得なかったことから生まれたものだ。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 確かに、社会保障のもとで安心して暮らせる人生というものも、人類がこれまでの長い歴史の中で達成してきた成果である。特に、昔のような農業中心の社会ならいざ知らず、今日のように工業化され経済的な格差が広がりやすい社会では、最低限度の生活を国が保障する仕組みというものは欠かすことができない。だから、大事なことは、底辺はしっかりと保護するものの、それよりも上の部分については規制を撤廃てっぱいして自由な競争に任せることだ。自由な社会でそれぞれが自助の精神で物事にあたるならば、それは野生動物のように生きている実感を呼び起こすことにつながるだろう。情熱とは、単に心の持ち方で生まれるものではなく、行動の中から生まれるものだ。私もまた、安全な道を求めるのではなく、自分の力で道を切り開く自分にしかない生き方をしていきたい。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.2週 mi
 最近、と言っても大分前からのことだが、ラジオの音楽番組の解説者が、金曜の夜などに番組が終わるとき「では皆さんみな  、よい週末をお過ごしください」といったあいさつをするようになった。このような、一昔前だったらだれも言わなかったあいさつを日本人がするようになったのは、海外との接触せっしょく飛躍ひやく的に増えた結果、Have a nice weekend(holiday)! のような、休みを前にしてのあちらの人々のあいさつの習慣を、日本人が進んで取り入れた結果、起こった言語表現上の変化なのである。一般いっぱん的に言ってある言語がそれまで接触せっしょくのなかった別の言語と接触せっしょくするようになると、そこに相互そうごの交流が生じ、双方そうほうの言語の中に相手の言語によるいろいろな変化の起こることが知られている。このような言語変化を、言語学では言語干渉かんしょうと呼んでいる。
 多くの日本人にとって、欧米おうべいの文化や風俗ふうぞく習慣は、依然としていぜん   自分たちの生き方の目標や憧れあこが の対象であるようだ。その結果、いま日本語は、日本の国際化という大変動の中で、外国語、特に英語という強大な言語からの広汎こうはんで、しかもほとんど一方的な干渉かんしょうにさらされている。さきに述べた新しい週末のあいさつの誕生は、表現形式の領域に起こった比較的ひかくてき新しい言語干渉かんしょうの一例であるが、他のいろいろな分野でも干渉かんしょうはすでに数多く起こっている。
 しかしそれが最も目立つ形で、しかも一番広範囲こうはんいで起こっているのは語彙ごいの分野である。普通ふつうには外来語と呼ばれて、何かと論議の対象になるタイプのことばは、実は英語を旗頭はたがしらとするヨーロッパ諸言語に日本語が干渉かんしょうされて起こった言語変化にほかならない。たとえば食堂などで給仕が「水」と言えばよいのに「ウォーター」を使い、「いちご」という美しい日本語があるのに、わざわざ「ストロベリー」と呼んだりすることが、その一例である。
 このような外来語の問題は言語の問題であると同時に、それはまた文化文明の問題でもある。人々は単に自分たちの言語に不足する語彙ごいを補うために外国のことばを求めるだけでなく、そこには異文化に対する憧れあこが や自己顕示けんじ欲、そしてその文化や言語への接近
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

同化の願望といった、素朴そぼくな実用性の見地からだけでは説明のできない多くの要因がからんでいるからである。(中略)
 明治維新めいじいしんとともに日本国内には、それまで見たことも聞いたこともない新奇しんきな事物がどっとあふれ、旧来のしきたりや風俗ふうぞく替わっか  て、見慣れぬ外国の制度や習慣が急速に拡がり始めた。明治という時代は、突如とつじょとして東西の文明が衝突しょうとつし交じり合う一大社会変動の渦巻きうずま に、人々が翻弄ほんろうされた時代なのである。日本人の言語生活も例外ではなかった。奔流ほんりゅうのように襲いかかるおそ    変革の荒波あらなみを、欧米おうべいの言語とはすべての点で異なる日本語を使ってどう乗り切るかは、新時代における各界の指導者たちに課せられた課題であった。
 だれでも知っている、それだけに目立つ対応は「バター」や「チーズ」ということばのように、外国語そのものを外来語として使う方法であった。しかし、これに比べるとはるかに目立たず外来語のような賛否の議論の対象になることもほとんどなかった対応の一つは、既にすで 日本語の骨肉と化していた漢字をいろいろと組み合わせて新語を作るという方法である。たとえば、英語のautomobile carに対応するため、新たに作られた「自動車」のようなものである。(中略)
 振り返っふ かえ てみると、第二次世界大戦までの日本人の生活は、社会的公的な場面では、西洋式を努めて取り入れ、家庭に戻るもど と服装から食事まですべてが日本式になり、外国文化は応接間と称するしょう  来客用の特別な部屋に限っておく場合が多かった。このような内と外を区別する生活様式は、日本人が外来の異質な文化を急速に受容せざるを得なかった時代に、一種の社会制度上の緩衝かんしょう装置として機能したと思われるのである。
 それを可能にした要因の一つは、日本に漢字という便利な言語手段がすでにあったことなのである。あらゆる面で伝統的な日本文化とは異なる欧米おうべいの文化を、明治の開国とともに一気に、しかも広範囲こうはんいに輸入し消化するとき、高度の文化文明を簡潔に表現する力をすでにもっていた漢字という言語要素が日本にあったということは、幸運なことと言わねばならない。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.3週 mi
 人間は他の人間と自由にまじわることができる。あるいは、まじわる相手を自由にえらぶことができる。学校の友だち、職場での友人、恋人こいびと、そして夫婦でさえも、それぞれの当事者の自由な選択せんたくによって成立している人間関係だ。
 相手方にだれをえらぶかは、ある意味では自由であり、べつな見方からすれば偶然ぐうぜんである。ふとめぐりあい知り合った人びと――その人びととわたしたちはつきあって生きている。仲よくなれば一生をつらぬいた、親しい友人関係をとりむすぶこともできようし、けんかをして、それでお互い たが ふたたび顔をあわせない、といったようなことになるかもしれぬ。
 とりわけ、現代のように、都市化がすすみ、偶然ぐうぜん性の高い社会では、人間関係は、ふと結ばれ、そしてふと消えてゆく一時的なものであることが多い。学校の友人にしても、それは卒業後数年間で、いつのまにかごぶさたになってしまう。すくなくとも、そのような人間関係では「ごぶさた」がゆるされるのである。
 しかし、そのように自由な人間関係のなかで、ひとつの例外がある。それは、血縁けつえんの関係、とりわけ親子の関係である。友人だの隣人りんじんだの夫婦だのは、「えらぶ」ことができるが、親子関係だけは、「えらぶ」ものではない。人が生まれた瞬間しゅんかんに、親子の関係は宿命的にあたえられてしまっている。こればかりは、だれにも、どうにもならない。
 そのうえ、人間という動物は養育期間がながい。「親はなくても子は育つ」というのも真実だけれども、親がわりになるおとながいなければ人間の乳幼児は死んでしまう。そして、ふつうのばあい、子を育てるのは親である。親子というのは、人間にとって、のっぴきならない関係なのだ。自由にみちあふれた現代の人間関係のなかで、親子だけはまったく別枠べつわくの関係なのである。そこでは人間関係一般いっぱんについてのさまざまな原則はあてはまらない。どんな社会、どんな時代にも、こうした特殊とくしゅ関係としての親子関係は生きつづけ、そのことによって、人類の歴史はつづりあわされてきた。そして、ついこのあいだまで、そういう親子関係は、ごく自然なものとしてだれもがうけいれていた。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


 しかし、現代のひとつの特徴とくちょうは、親子という関係が「問題」化してきた、ということであろう。むかしのように、親子は自然なスムーズな関係ではなくなってきたのだ。新聞の身の上相談などをみても、親子「問題」がぐんとふえてきた。いわく、どうやって子どもを育てたらいいのでしょう。いわく、親がわたしを理解してくれません、どうしたらいいのでしょう。……親子のあいだには、あきらかに、深いみぞがうまれてきている。
 なぜ親子が「問題」化してきたのか。いくつもの理由をあげることができる。
 まず第一に、変化する社会のなかで親と子の経験がまったく異質化してしまったという事実に注目したい。かつて、社会が「伝統」社会であったとき、親と子は、おなじ経験を共有していた。子を育てながら、親は、じぶんが子どもだったころのことを回想することができたし、その子どもをこれからどんなふうに育てていったらいいか、についても確信をもつことができた。
 『どんなふうに育てていったらいいか』といった疑問は、伝統社会の親からみれば想像を絶している。子どもの育てかた――それはきわめて簡単だ。じぶんが育てられたのとおなじように育てればよい。それだけのことなのだ。じぶんの子どもは、将来、じぶんとおなじようになるだろう、と親は考え、また、子どもは、親とおなじような人間になりたい、と考えた。いわば、そこでは、子は親の「複製品」だったのである。
 ところが、現代社会での様子はだいぶちがう。おむつのあて方、授乳の仕方までが、ひと時代まえとすっかりかわってしまった。親は、じぶんが子どもだったときの経験を思い出してそれによって子どもを育てるのではなく、育児書をひもといて子どもを育てる。乳児経験の段階から、親子のあいだには、大きな落差がつくられているのだ。
 社会が進歩し、変化するかぎり、この落差は避けさ られない。子どもは親とちがった存在になる。そして、この落差から、さまざまな問題が派生してゆく。完全な保護者・教育者としての親と、完全な保護者・生徒としての子、という安定した関係はグラつき、親子のあいだには一種の緊張きんちょう関係がうまれてゆく。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 7.4週 mi
 ある朝、少年は、目覚めるなり、「山へ登ろうよ。」と女の子に言った。「山へ登るの。」女の子は少年に問いかえすように言ったが、少年が、「うん、山や、裏の山や。松の木に登って、港を見ようよ。」とせきこんで言うと、女の子はしばらく少年を見つめていて、やがて、「うち、山なんか登ったことあらへん。」と、許しを請うこ ように、おどおどと言った。女の子は足が悪くて山へ登ることができなかったのだ。だが、かがやいていた少年のまなざしが、みるみるくもっていくのを見ると、「ぼんは山へ登りたいの。」と言った。それから、「ぼんが登りたいんなら、うち行ってもええで。」としょんぼり言った。
 女の子は、裏木戸を出てがけはだにかかるところで、もう、右足のひざを手でかばいながら、やっと少年のあとをのろのろと追っているのであった。少年は、はじめ、そんなことに気づかなかった。女の子に少しでも早く尾根おねからの景色を見せたくて、一人で先に駆けか 登って行った。女の子も自分と同じように駆けか 登って来るように、少年は思っていたのだ。だが、二つ三つ、まがり角をまがってから、女の子の姿が見えないことに気づいた。「はようおいでよ。」大きな声でそう言って、それから不安になって、あとへ駆けか もどって行くと、女の子は、最初のまがり角をやっとまがりおえて、右足をひきずりながら懸命けんめいに登って来ていた。色のあせたメリンスの着物のひざぎりのすそから、真っ直ぐつっぱっている右足が見えた。そんなことは、毎日いっしょにいて、とっくに知っていたのだが、少年は、その時、はじめてそのことに気づいたように思った。
 少年が女の子のそばまでもどって行くと、女の子はいっそう懸命けんめいに足をひきずりながら、「うち、のろくってかんにんな。」と言った。女の子は、せいいっぱい笑いをほおにうかべようとしていた。そばかすが汗ばんあせ  でいる目のまわりにういてきていた。少年は、それが女の子の泣き出す前の表情であることを知っていた。少年には、女の子の大きな黒い目から、今にもぽたぽたとなみだがこぼれ落ちそうに思えたが、女の子はうれしそうに、にっこり笑ってみせて、「ぼん、はよ、行こ。」と言った。
 少年は、そうすれば女の子が歩きやすくなるなどということは考えてもみずに、女の子の右肩みぎかたへ自分の左肩ひだりかたをよせていって、女の
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

子のからだの重みを自分で支えた。もう少年は尾根おねまで登ることはあきらめていた。だが、ついそこまで登れば、目の下に、港の黒いかわら屋根の並んだ町並や、いっぱいに汽船がうずまった港が見おろされるところがあることを思い出していた。せめて、そこまで、少年は、女の子を連れて行きたかったのだ。
 少年が、やっと女の子をその山肌やまはだまで連れて行くと、女の子は、「わっ。」とさけんで、日だまりへとびだして行った。女の子はすぐころんで、メリンスの着物には芝草しばくさがまみれたが、そんなことはどうでもいいように、女の子は、「うち、こんなとこに来たん、はじめてや。」とさけぶように少年に言った。女の子のからだいっぱいに春の日ざしがこぼれていた。

(田宮虎彦とらひこ『小さな赤い花』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.1週 mi
 作曲に集中しているとき、不意に、音楽というものが、自分の知力や感覚では、捉えとら ようもない(神秘的な)ものに思われることがある。自分なりに、音楽が解ったような気がしていただけに、そんな時、私は、戸惑いとまど 焦りあせ の後の無力感に挫けくじ そうになってしまう。だがその無力感は、深刻な絶望とは異質な、むしろ居心地良さとぬくもりさえ感じられる「たぶんそれはなにか途方とほうもなく大きな」諦めあきら のようなものだ。こんな感情は、言葉ではとても伝え難い。私は待つしかない。期待ということではなく、己を空白にして音が私に語りかけてくるまで待つ。音をいじって私の考えで縛るしば ことから離れはな て、耳と心を全開にする。
 作曲という仕事は、どうしても音をいじり過ぎて、その音が本来どこから来たかというような痕跡こんせきまでも消し去ってしまう。方法論だけに厳格になると、ともすると音楽は紙の上だけの構築物になり空気の通わないものになる。例えば、ひとつの和音は、物理的波長の複雑な集束として、音響おんきょう学的には、殆どほとん 不変のものとして存在し、また規定し得るだろう。だが音楽という有機的な流れの中では、その(ひとつの和音の)響きひび は千変万化するもので、その表情の豊かさは、まるで、生きたもののようである。一般いっぱんに言われる、長和音は明るく、短和音は暗いというようなことがかならずしも正確でないのは、注意深く音楽(作品)を聴けき ば、容易に、理解されることである。
 ではなぜ、音は、恰もあたか 生きたもののようにその表情を変えるのだろう? 答えは、至極単純に違いちが ない。即ちすなわ 、音は、間違いまちが なく、生きものなのだ。そしてそれは、個体を有さない自然のようなものだ。風や水が、豊かで複雑な変化の様態を示すように、音は私たちの感性の受容度に応じて、豊かにも貧しくもなる。私は音をつかって作曲をするのではない。私は音と協同(コーオペレイト)するのだ。だが、私が、時に「作曲家として」無力感に捉えとら られるのは、私がまだ協同者「音」の言葉をうまく話せないからだ。
 先日、ある紙上に、高見順賞を授賞された吉田よしだ加南子さんの受賞
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

挨拶あいさつが再録されていた。その中に、現在(いま)の私にはとても身近に感じられる言葉があった。手前勝手に引用させていただく。
 吉田よしださんは、詩人として歩んだこれまでを簡略に振り返っふ かえ たあとに、
 「私の意思だけではなく何か大きな力に働きかけられている。私はそれを受け止めなくてはならない。また、子供が遊ぶように詩を書くことが、仕事になって、生き生かされている。そうしたことを通してゆるしのようなものが与えあた られているのかもしれない」
 そう現在の心境を述べられ、さらに、
「私は本当は空とか海、木とか葉っぱにとってもお礼を言いたいんです。けれども、残念ながらまだ私は、空の言葉、海の言葉を話すことができません。ですから、そのためにこそ詩を書いてゆかなければならない」と、挨拶あいさつを結ばれている。
 この言葉に深い共感を抱いいだ た者として、なぜ、いまここにそれを引用したかを説明するのは、どうにも余分なことに思える。(中略)
 自然から学ぶことは余りにも多い。自然の(この地球の)記憶きおくの層の、深い、遥かはる な連なりを見出すのは、私のような者には、とても容易なことではないが、せめて季節毎の変化の相、その推移を感じとれる感受性を身につけたい。それは、私に、音が語りかけてくる毀れこわ やすい言葉の表情のいろいろを聴きき 逃がすに  ことがないように働きかけてくれるだろう。作曲は音と人間との協同作業(コラボレーション)だと思うから、作曲家は音に傲慢ごうまんであってはならないだろう。

(武満とおるの文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.2週 mi
 吉川きつかわのパスは蹴っけ た者の意思がのり移ってでもいるかのように、全力疾走しっそう中の宗介そうすけの右足に吸い付いてきた。宗介そうすけはただそのボールをエンドラインぎりぎりまで持ち込んも こ でセンターリングを上げればよかった。反対方向から走り込んはし こ できたフォワードの連中がへディングなりダイレクトなりでシュートを決めてくれるのだった。
 (中略)
 秋の都大会では決勝まで進み、延長戦でも決着がつかなかったのでペナルティーキック合戦にまでもつれこみ、結局準優勝に甘んじあま  た。大会中の目立った選手がベストイレブンに選ばれたのだが、やはり優勝チームから選出される者が多く、技術的には優勝チームの同じポジションの選手を上回っていた吉川きつかわは選にもれた。
 冬に例年にない走り込みはし こ をして、今年こそは優勝を、と団結を強めていたのだが、三年の夏休みを前にした暑い午後、宗介そうすけはコーチの浅野に退部を申し出た。前日、夏休みの練習計画が浅野から発表されたのだが、毎日朝九時から夕方六時まで練習メニューが決められ、休日は一日もなかった。吉川きつかわという天才的な選手を得て、都大会優勝は今年を逃しのが ては当分無理だ、と読んだ浅野の決意の表われた計画表であった。
 宗介そうすけの学業成績は、もう少し頑張れがんば ば進学校といわれる都立高校に手が届く程度のものだった。ドリブルしながらフェイントをかけるとき、どうにもならない生来せいらいの体のかたさをよく知っていたので、サッカープレイヤーとして一人前になれないことは分かっていた。夏の練習に参加すれば受験勉強ができなくなる。
「退部します。お世話になりました」
 すでに練習が始まっている校庭の花壇かだんの前で、トレーニングウエア姿の浅野に向かって宗介そうすけは頭を下げた。
冗談じょうだんはよせ」
 浅野は首にかけたホイッスルをタバコでもすうように口にくわえた。よくに焼けた狭いせま 額のしわの中から大粒おおつぶあせ湧いわ ていた。
「本気です。辞めさせて下さい」
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


 チームメイトたちが円陣えんじんキックをしながらこちらを注目していたので、宗介そうすけは今度は頭を下げなかった。
「ああやって懸命けんめいに練習している仲間を裏切るのか」
 浅野は花壇かだんのひまわりのくきをつかんだが、語尾ごび震えふる とともに折りとってしまった。
「自分の生き方を自分で決めただけです」
 青く高い夏空の下で、中学三年の宗介そうすけはためらうことなく言い切った。
 浅野は手にした大輪のひまわりを乾いかわ た地面に叩きつけたた   円陣えんじんの方に歩み去った。黄色い花びらが宗介そうすけのズボンのすそに散った。
 右ウイングの自分が抜けぬ ても、実力にほとんど差のない二年生の補欠を補充ほじゅうすれば、チーム全体の力は落ちない。だれにも相談せずに退部を決めた宗介そうすけがあくまで個人的な問題なのだと自らを納得させていたのにはこんな状況じょうきょう判断があったからだった。しかし、事態はかれの予想しなかった方向に広がってしまった。
 宗介そうすけが辞めたのを知った三年生のレギュラーたちが翌日から次々に退部を申し出るようになってしまった。宗介そうすけよりもはるかに成績のよいゴールキーパーの菅井すがいやハーフの堀田ほりたまでもが受験勉強を理由に辞め、夏休みの前日になって残った三年生のレギュラーは吉川きつかわ一人になってしまった。
 学校の花形クラブであるサッカー部の三年生の大量退部は職員会議の話題にもなったようだが、理由が受験勉強に専念したい、という至極しごくまっとうなものだったので、校長や教頭も口をつぐんだままだった。
 一学期の終業式を終えて校門を出るところで、宗介そうすけはユニフォーム姿の吉川きつかわに呼び止められた。吉川きつかわは照れたように目を細めながら自転車置場の方に手招きした。
「おれはさあ、頭もよくねえし、板前にでもなっておふくろの店手伝うしかねえんだけど、サッカーやりてえんだ」
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 8.2週 miのつづき

 スレート屋根の下の日陰ひかげはひんやりしていた。吉川きつかわはスパイクの裏のアルミピンで柱を蹴りけ ながら下を向いて話していた。
「都大会のベストイレブンになれたら、私立高校のサッカー部に特待生で入れるかと思ってな。おれはさあ、そう思ってサッカーやってきたんだ。板前になる前にサッカーで花咲かしさ  てみたくてな。おれの、夢だな。あの小せえ店に入る前に、夢くらい見たっていいと思ってな」
 吉川きつかわは下を向いたままいつの間にか泣いていた。乾いかわ た砂の上に落ちるなみだは夕立の雨つぶよりも大きかった。
「悪いな」
 宗介そうすけはもっとこの場に適した言葉を見つけられない自分にいらだった。いっそ殴っなぐ てくれたら、このいらだちも解消するのに、と思った。
「いや、いいんだ。ただ、おれのグチも聞いてもらいたくてさ。気にすんな。おまえ、いいウイングだったよ」
 吉川きつかわは顔を洗うように両手でなみだ拭くふ と、そのまま走って行って新しいチームのシュート練習に加わった。
 宗介そうすけは砂の上に残る吉川きつかわなみだあとをしばらく見つめていたが、やがて大きな深呼吸とともにくつで消し、校庭を振り返らふ かえ ずに校門を出た。
 
 (南木なぎ佳士けいしの文章による)
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 8.3週 mi
 自分に友達のできないのは、口が重く、しゃべることが下手で、相手を引きつけたり、よろこばせたりできないからだと思っている人も少なくない。しかしこの種の人も、人間というものは、こちらの言うことなどをそんなに注意してきいているものではないと考えることによって、気持ちが楽にならないだろうか。何かすばらしいことを自分が言うと相手が期待していないだろうかと考えるために、ますます口が重くなる。だが、世のなかで、自分の言うことにいちばん耳を傾けかたむ ているのは、ほかならぬ自分自身であることを知っておくのはむだではあるまい。何かつまらないことを言って笑われはしまいか、軽蔑けいべつされはしまいかと心配するのは、相手が自分の言葉に耳をすませているだろうと思っている一種の自惚うぬぼれである。こちらが不安と心配で胸をドキドキさせてしゃべっているときでも、別のことを考えているばあいが多いのである。まさにアランの言う「対象のない恐怖きょうふ」であって、そんなことにくよくよするのは全く意味のないことである。
 「自分を虫けらだと思っている者は人に踏みにじらふ    れる」という格言がフランスにあるが、他人から尊重されるには、まず自分で自分を尊重することが第一である。われながらつまらないヤツだと思っている人間に、他人が敬意を払うはら はずがあるまい。自分は人に好かれない人間だと思っているかぎり、自分を好いてくれる人はないだろう。人間というものは、いつも友達を欲しそうにして卑屈ひくつな愛想笑いをしている人間よりも、孤高ここうの態度をくずさない人間に対して、むしろ友情を求めたがるものである。無益な劣等れっとう感をてるに越しこ たことはない。
 友達ができないことを嘆くなげ 人に次に問いたいことは、あなたは自分の周囲に何か冷たい空気を流していないだろうかということである。私がこれまでくり返し書いてきたように、友情というものは、まずこちらから何かを、しかも何らの報酬ほうしゅうを期待することなしに与えるあた  ことによって成り立つ。与えるあた  ことが、無際限に与えるあた  こと自体が悦びよろこ であるのが真の友情というものである。われわれの与えあた うるものには限度があるからである。そこに友人の選択せんたくが起こるのであるが、自分の選んだ人で、その人のためには何を与えあた ても惜しくお  ないという友人をもつことは至福ではないだろうか。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 私が冷たい空気というのは、好きな人にはすべてを与えるあた  というこの心意気の乏しいとぼ  ことを意味する。最初から与えるあた  気持ちの全然ない人に友達のできるはずがないが、たとえ与えるあた  気持ちがあっても、その代償だいしょうをひそかに期待するようでは真の友情は結ばれない。人間は敏感びんかんであるから、報酬ほうしゅうを期待して与えあた られる友情は、これを無意識のうちに見破って、警戒けいかいする。友達のできないことを嘆くなげ 人は、この種の、他人をして警戒けいかいせしめるものが自分にないかどうかを十分に反省してみる必要があろう。それと同時に注意すべきことは、他人から報酬ほうしゅうを期待しない友情を与えあた られながら、それを素直に、心から悦んよろこ で受け入れることをしないで、これには何らかの目的があるのではないかと警戒けいかいすることであろう。この種の警戒けいかい心もまた冷たい空気となって諸君をつつみ、友達をよせつけない。一般いっぱんに、友達のないことを嘆くなげ 人には、この冷たい警戒けいかい心で無意識のうちに武装している人が多いように思われる。
 私が何かを与えるあた  というのは、もちろん物質的なものばかりを意味するのではない。生まれつきさまざまの魅力みりょくを具えている人は、与えるあた  ものを多くもつ人である。問題は与えるあた  ものの乏しいとぼ  人にある。自分は何を無償むしょうで人に与えるあた  ことができるかを考えるとき、よき友達はおのずから作られるにちがいない。

河盛かわもり好蔵よしぞうの文章による)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 8.4週 mi
 その少年はまるまると太っていて、いつも腕白わんぱくであった。クラスの中でもとりわけ貧しい家の子供で、給食費などは期限どおりに納めたことは一度もなかった。あるとき、私は少年に、
「おまえ、なんでそないに太ってるねん?」
 といた。小さいころから「青びょうたん」とあだ名をつけられていた痩せっぽちや    の私は、なんとか人並に太りたいと子供心に念じつづけていた。雪深い富山から、兵庫県の尼崎あまがさき引っ越しひ こ てきて一カ月ばかりたったころ、私が小学校五年生のときである。
寝るね 前に、たこ焼きを食べるんや」
 少年はそう教えてくれた。毎晩、夕刊を売って歩き、その稼ぎかせ でたこ焼きを買うのだと、だれにも内緒ないしょにしていた秘密まで打ち明けてくれたのだった。酒乱の父と、どんな仕事をしているのか判らないが、めったに家に帰ってこない母を待つその少年が、いたしかたなく自力で金を稼ぎかせ 出し、毎夜毎夜、たこ焼きばかりを食べつづけていたことなど私は知る由もなかった。
ぼくも夕刊を売って、たこ焼きを買うんや」
 私がそう言うと、母は血相を変えて反対した。父は笑って、
「ぎょうさん儲けもう て、お父ちゃんにもおごってや」
 と許してくれた。
 当時、阪神はんしん電車の尼崎あまがさき駅周辺には、小さい屋台や小料理店がのきを並べ、ならず者たちが凍てつくい   露地ろじのあちこちにたむろしていた。私は少年とつれだって、夕刊の束を小脇こわきに、飲み屋のノレンをくぐっていった。
 だれも夕刊を買ってはくれなかった。しつこく売りつけようとして酔っぱらいよ    突き飛ばさつ と  れたり、しり蹴らけ れたりもした。寒風の吹きすさぶふ    大通りから、はだか電球のともる薄暗いうすぐら 露地ろじもぐり込み   こ 一軒いっけん一軒いっけん新聞を売り歩いているうちに、私はだんだん情けなくなり、家に帰りたくなってきた。だが、断られても断られても夕刊売りをやめようとしない少年に引きずられて、夜更けよふ まで場末の飲み屋街を歩きつづけたのだった。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

「きょうは調子が悪いなァ……」
 と少年が立ち停まった。
「……ぼく、もう帰らんと怒らおこ れる」
 その言葉で、少年は私から新聞の束を受け取り、
ぼくはもうちょっとねばってみるさかい」
と言い残して、再び暗い露地ろじへと消えて行った。私は体中が凍えこご ていた。夜道を震えふる ながら帰った。家に入ろうとしたとき、誰かだれ の歩いて来る音が聞こえた。父であった。父は「おかえり」と言って私の耳をてのひらで包んでくれた。その夜、銭湯からの帰り道、父がさとすように呟いつぶや た。
「おまえのたこ焼きと、あの子のたこ焼きとは、味が違うちが んやでェ」
 それからちょうど十年後に父は死んだ。父の死後、何かの折に、夕刊を売り歩いた一夜の思い出を母に語った。そしてそのとき母から、あの夜、尼崎あまがさき歓楽街かんらくがいで新聞を売り歩く私のあとを、父が最初から最後までずっとけていてくれたことを聞いたのであった。
 いまでもときおり、場末の歓楽街かんらくがいを歩いているときなど、露地ろじのくらがりからまるまると太ったあの少年が、夕刊の束をかかえて走り出てくる幻想げんそうにかられる。そんなとき、オーバーで身を包んだ父が、物陰ものかげからじっと私を見ているような気もするのである。

(宮本てる『夕刊とたこ焼』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.1週 mi
 私は二十年ほど前から、人間は自らを飼育し、家畜かちく化――自己家畜かちく化していると述べ続けている。まず人間は、人間自身を飼育しているのではないか。女房にょうぼう亭主ていしゅが飼育されているなどの、たとえに使われるのと同じように感じられるかもしれないがまったく違うちが ヒトを生物の一種とみなした場合、個人レベルではなく、人間自身がつくった社会システムに依存いぞんして暮らしている点からである。飼育動物を例にして考えてみると、比較ひかく生態学的には否定する論拠ろんきょはない。飼育動物はそれなりにフリーに動いてはいるものの、少し大きな目で見ると人工的につくった場の中でフリーなのにすぎない。狭いせま おりの中で飼育されている場合と違っちが て、放飼場のついた飼育場で飼われていたらどうであろうか。どれほど大きな違いちが があるだろうか。毎日、自転車などでくさりにつながれて走っているイヌと、満員電車でゆられてオフィスに往復する人々との違いちが は、たまに寄り道するのと、自分の選んだ道(企業きぎょう体を含めふく )であるかの違いちが で大した差異はないとも言える。違いちが は社会的・文化的な面があるかどうかや、くさりが目に見える具体物かどうかであるとも言える。
 人間は自らを自らで飼育し、馴化じゅんかしている。自己飼育、自己馴化じゅんかである。人類学の教科書には、こうした説明が載せの られているものがある。一般いっぱんには、これは否定的で比喩ひゆ的にしかとらえられない。だれも自ら好んで飼育され、ならされていくことなどないと感ずるからである。だが、私がこれにこだわったのは、ここでいう自己とは個々の人間の行為こういの上での自己ではなく、ものごとの自己発展の上での自己である。人間というもののあり方が、自ら飼育していくという意味である。では飼育というのをどう考えるのかと問われれば、人類学上の定義はともかくも、動物にとっては食物を供給されることから始まる。動物が生きることは、まず生態学的・生物学的に食物をとることに尽きるつ  。動物の生活すべては、食物をとることが中心に営まれている。その成果にもとづいて繁殖はんしょくがなされる。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 


 飼育とは、食物を供給され、さらに生活空間や場も与えあた られるといってよい。しかし、飼いならすというと通常、餌付けえづ から始まるのでわかるように、食物を自力でとらずに済む依存いぞんの暮らしが基盤きばんである。子供の時期は食物を供給されるが、自立するためには食物依存いぞんを断たねばならない。ライオンのような強力な捕食ほしょくじゅうにとっても、離乳りにゅうの後、自力で獲物えものをうまくとれるようになるまで、生き続けることはとても難しい。それだけに食物を供給されることは、まるで全生活の面倒めんどうを見てもらうのに等しい。
 人間として生活をしているヒトとしては、食物のとり方は食事だけではない。獲物えものをとる動物の場合になぞらえれば、漁業や農業その他、食物生産のすべてを個人でやらねばならなくなる。別の言い方をすれば、ヒトは社会システムに参加することによって、社会的に食物を供給されている。社会的に飼育されているとも言える。社会システムにせよ、食料生産のしくみもまた、人間がつくっているので、自己飼育・自己馴化じゅんかである。
 現在多くの人々は、若い人々や子供を見ていて、なにか大きな変化が人間の精神や行動に現れていると、漠然とばくぜん 感じているだろう。(中略)
 比喩ひゆとして言えば、現代の青年や子供は、座敷ざしきイヌと類似している。自己家畜かちく化が、特殊とくしゅな条件下で自己ペット化に至ったものと言えよう。さきに述べたように自己家畜かちく化は、「もの」や「人工的人為じんい的世界」の中で形質を決定づけている、基本的な人間のあり方である。したがって自己ペット化は、その自己家畜かちく化の管理・保護と人工化がより進んだ現代的な先進国での特殊とくしゅな状態だとみなせる。自己ペット化の場合には、自己家畜かちく化のような論理にもとづいたものであるよりも、状況じょうきょうを示す表現に力点が置かれた言い方である。自己家畜かちく化の特殊とくしゅな現代的あり方である。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.2週 mi
 何ごとぞ 花見る人の長刀なががたな
 花見に平素の身分・階層をもちこむのは野暮やぼというものだ。花見に行って武士の権威けんいをふりまわすようなやからは、「なんだサンピン、えらそうにするな」と町人どもから反発をくらうことになる。
 花見にケンカはつきものである。花見には、町内や職域といった小共同体の仲間が、つれだって出かけることが多い。それは新しく共同体意識をもりあげようとするか、あるいはこわれかかった共同体意識をたてなおそうとするのに利用される。だが花見の場合は、あくまで小共同体意識にとどまり、大共同体意識になれない。そこで小共同体同士がいがみあいを起こしがちだ。花見どきのケンカといえば、個人同士のやりあいよりも団体客の乱闘らんとうが多いのは、そのためであろう。
 桜の花は、日本民族のシンボルとして、大共同体意識の中核ちゅうかくに置かれたが、現実の花見はついにそこまで至っていない。
 花見とならんで、月見と雪見――この三つが日本人の自然観賞の基本になっているが、月・雪・花、そのいずれもがうつろいやすいものという共通点がある。月はいつも満月ではありえないし、雪はいつかとけて消え去る。花の生命は短い。満開だと思っていたら、一夜の雨風ですぐ散ってしまう。そうだからこそ、うつろいやすいものを惜しむお  心が、時候に合わした会合の珍しめずら さを貴ぶのだ。自然の有為転変ういてんぺんをながめては、人の生命のはかなさだけでなく、社会もつねに移り変わってゆくのだという気持ちが、日本人の心のどこかに絶えず潜んひそ でいるのである。
 だいたい日本人は「見る」ということに重要な意味を与えるあた  。百聞は一見にしかずということわざの示すとおり、いくら本を読み頭で理解していても、現場を見たものには、たちうちできないのだ。自分の目で見なければ、認識の根拠こんきょとしてすこぶる薄弱はくじゃくだとする意識がある。いうなれば現場主義であり、体験主義であり、実証主義である。日本人のカメラ好きも、絵葉書では満足できぬ「自分の目で見て確かめる」実証主義のなせるわざであろう。
 さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人こいびと同士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。そんな言葉を口に出さなくとも、満
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

月を仰ぎあお 見て、
「いいお月さんですね」
 そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。「月が鏡であったなら」という歌の文句があるように、この場合、お月さんは二人の心のリフレクターの役割をする。つまり、日本では、言葉でなく、物理的対象物をともに見ることで、社交が成り立つのだ。そう考えてくると、月見、花見、雪見といった集団的な観賞行為こういは、じつは、日本文化のなかでのコミュニケーションの方法でもある、といわなければなるまい。月、雪、花は人と人をむすびつける触媒しょくばいなのである。西洋のように、しゃべることが社交の基本になっているところでは、話がとぎれるとなにか気まずい思いをしなければならない。日本人なら、だまってなにかをながめることでも、会話は進行しうるのだ。
 芝居しばいを「総見そうけん」するなどというが、これも舞台ぶたいで演じられている所作しょさをみながいっしょに見ることに意味がある。見ることに力点をかけた社交の場が、芝居しばいの総見なのである。おしゃべり一本だと、話題がとぎれたときに、白々しい感じがのこる。共通の「見る」対象物を一つおいておけば、そういう緊張きんちょう感はなくなる。しゃべりたくなったらしゃべればいいし、しゃべることがなくなったら、見ているだけでいい。日本の劇場がザワザワとしているのは、西洋の観劇エチケットからすれば、たいへん不作法なことかもしれぬが、それはそれで、ちゃんと機能をもっているのである。
 花見が最も庶民しょみん的なマス・レジャーであるのも故なしとしない。

(林屋辰三郎たつさぶろう他『日本人の知恵ちえ』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.3週 mi
 衰弱すいじゃくしたアイデンティティのぎりぎりの補強、それを個人レベル、感覚レベルでみればたぶん「清潔願望」になる。じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだけのもの、独自のものがあるのかどうか確信がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質なもの、それにちょっとでも接触せっしょくすることをすごく怖がるこわ  じぶんでないものに感染することでじぶんが崩れくず てしまう、そういう恐ろしおそ  さにがんじがらめになるのだ。じぶんのなかになんの根拠こんきょもないまま、じぶんの同一性を確保しようとするなら、〜ではないというかたちで、ネガティヴにじぶんを規定するしかない。じぶんは女ではない、子どもではない、白人ではない、病気ではない……
 そういうことすら不可能なとき、ぼくらはじぶんでないもの、他なるものの感染、あるいはそれとの接触せっしょく徹底てっていして回避かいひしようとする。清潔症候群しょうこうぐん(シンドローム)というのも、まさにそういうコンテクストで現われてきたのではないだろうか。
 六十代後半のさる高名な数学者が、かつてぼくにこんな話をしてくださったことがある。その先生は、じぶんのむすめがまだ高校生のころ、お父さんをとにかく汚いきたな と感じていたらしく、いくら話しかけてもからに閉じこもって、とにかく父親とは音信不通という状態が長く続いたそうだ。それが、結婚けっこんし子どもを産んだとたん、日常のこと、小説のことと、いろいろじぶんにしゃべりかけてきたという。読んでおもしろかった小説を交換こうかんしたり、映画のはなしをしたりといろんなコミュニケーションの回路が開かれてきたとおっしゃるのだ。これは、お嬢さん じょう  がご主人という他者と身体的な交感をもちはじめたこと、栄養摂取せっしゅから排泄はいせつまで子どもの生理の全過程とつきあいだしたことと、無関係ではなかろうとおもう。お嬢さん じょう  の場合、結婚けっこんを機に、透明とうめいのカプセルでじぶんの存在を他者から隔離かくりすることが不可能になったということが大きいとおもう。他者を排除はいじょすることによってではなく、他者との交錯こうさく、他者とのやりとりのただなかで、そのつどじぶんをかたどっていくというやりかたにいやがおうでも引き込まひ こ れていったのだ。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言いかたをすると、ぼくらには「他者の他者」としてはじめてじぶんを経験できるというところがある。ぼくらはじぶんをだれかある他人にとって意味のある存在として確認できてはじめて、じぶんの存在を実感できるということだ。(中略)
 ロナルド・D・レインという精神医学者は、ひとは「じぶんの行動が意味するところを他者に知らされることによって、つまりかれのそうした行動が他者に及ぼすおよ  「効果」によって、じぶんが何者であるかを教えられる」と言っている。つまり、ぼくがぼくでありうるためには、ぼくは他の「わたし」の世界のなかにある一つの場所をもっているのでなければならないということだ。それが他者の他者としてのじぶんの存在ということである。
 そういう他者の他者としてのじぶんの存在が欠損けっそんしているとき、ぼくらは、他者にとって意味のあるものとしてのじぶんを経験できない。他者という鏡がないと、ぼくらはじぶん自身にすらなれないということだ。
 このことは、自他の相互そうご的な関係だけでなく、教える/教えられるという関係、看護する/看護されるという関係のように、一見一方通行的な関係についてもいえる。教師も看護婦も、教育や看護の現場でまさに他者へとかかわっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの「わたし」の自己同一性を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話をしてあげる」という意識がこっそり忍び込んしの こ できて、自分は生徒や患者かんじゃという他者たちとの関係をもたなくても「わたし」でありうる、という錯覚さっかくにとらわれてしまう。そしてそのとき、「わたし」の経験から他者が遠のいていく。
 他者の他者としてのじぶんを意識できないとき、ぼくらの自己意識はぐらぐら揺れるゆ  。あるいはとても希薄きはくになる。そういうとき、ぼくらは皮膚ひふ感覚という、あまりにもそく物的な境界にこだわりだすのではないだろうか。自他の境界の最後のバリヤーとして。そしてそのバリヤー、つまりじぶんの最後の防壁ぼうへきを、過剰かじょうに防衛しようというのが、異物との接触せっしょく徹底てっていして回避かいひしようとするいわゆる清潔シンドロームだったのではないか。 (鷲田わしだ清一)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 9.4週 mi
 日本人はなにかというと人に贈りおく ものをする。たいした意味がなくても、ぼんと暮れになると、中元、歳暮せいぼ贈らおく ないと気がすまない。虚礼きょれいではないか、やめてしまえ、という声がときおりおこるけれども、贈答ぞうとうはいっこうに減らない。われわれは贈りおく ものをしないと落ち着かないようにできているのかもしれない。同じ日本人なら、同じような気持ちをもっているから、ときにおかしいと思う人がいても、贈れおく ばだいたい受け取って、形だけにしても、ありがたかった、うれしかった、と礼を言ってくれる。
 そういうことになれ切っていると、相手が外国人であっても、つい同じことをしてしまう。こちらが善意であれば、その気持ちだけはすくなくとも通じるだろうとのんきに考える。それがそうではないことがあるのだということは、苦い経験をしてからでないと、わからないからやっかいである。
 たとえば、アメリカ人にとって日本式の贈りおく ものがどういうように受け取られるか。これについてはこういうエピソードがある。
 日本に住むあるアメリカ人が隣家りんかの日本人の奥さんおく  からある日、くだものをもらった。くれたのは奥さんおく  だが、奥さんおく  が買ってきたものではない。奥さんおく  のところへ来た知り合いが奥さんおく  贈っおく たものだ。この知人はクルマで来て、そのアメリカ人の庭先へ駐車ちゅうしゃさせてもらった。奥さんおく  とアメリカ人との間で、必要なときには自由に使っていいという話のついている庭先である。しかし客は知らん顔ではまずいと思った。奥さんおく  にもってきたくだものを、アメリカ人にあげてくれと頼んたの だ。奥さんおく  にはまた別のものを考えると言うのであろう。奥さんおく  は言われるままに、客が帰ったあと、くだものをもってアメリカ人のところへ来たのである。
 ところがアメリカ人は喜ばない。どうしてくれるのかわからないのだ。やるといわれても、迷惑めいわくだと感じる。こちらがくだもの好きだとわかってくれたのではない、しかも、会ったこともない人からのくだものをどうして受け取れるか。相手はかまわず、そういうものをくれるのは、こちらの人間、個性を無視していて、おもしろくない。駐車ちゅうしゃさせてもらってありがたいと思ったなら、なぜ本人がやってきて、ひとこと、ありがとう、と言ってくれないか。そのほ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

うがわけのわからないくだものをもらうよりどれだけうれしいか知れない。会えば、知り合いになるチャンスだって生まれる……。そんな風に感じたが、このアメリカ人は結局、となり奥さんおく  のくだものを受け取った。断っては、奥さんおく  の顔をつぶすことになるだろうという日本的考え方をしたものである。
 プレゼントをしていいのは、相手の好み、趣味しゅみをよく知っていて、それに合ったものがあるときである。奥さんおく  のところへもってきたものを、そのまま隣家りんかのアメリカ人へまわすのは、送り先の人のことを無視するのもいいところで、はなはだまずい。
 贈りおく ものはときとして、とんだ災難のもとになることもある。
 日本で勉強しているアメリカ人の女子大生が、バイクでジグザグ走行していてトラックに接触せっしょく転倒てんとうし、軽い怪我けがをした。入院したが、非は自分側にあると思っていたから、トラックを責める気はまったくなかった。ところが、トラックの運転手は、いくら自分の責任ではないにしても、現に相手は入院している。放っておけない気がしたのだろう。ブドウをもって見舞いみま に行った。これがいけなかった。それまでは神妙しんみょうだったアメリカ人学生は、そこで考えを一変させた。この運転手は自分にワイロを贈ろおく うとした。悪い人間である。事故はこの運転手によっておこった。というような話をつくり上げてしまったのである。
 トラック会社と運転手を訴えうった て、裁判に勝ち、トラック会社から多額の賠償ばいしょう金をせしめることに成功した。ずいぶん高いことについたブドウである。善意がとんでもない解釈かいしゃくをされてあだになってしまった。贈りおく ものの文化が万国共通のものではないことを知らないでおこった小悲劇である。ことにあまり意味のないプレゼントをするのになれていると、つい気軽に人にものを進呈しんていしがちになる。相手をよく考えてからでないと贈りおく ものをしてはいけない。国際的な場面においてはとくにそれに注意する必要がある。

外山滋比古とやましげひこ『英語の発想・日本語の発想』)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534