ミズキ の山 9 月 4 週 (5)
○日本人はなにかというと   池新  
 日本人はなにかというと人に贈りものをする。たいした意味がなくても、盆と暮れになると、中元、歳暮を贈らないと気がすまない。虚礼ではないか、やめてしまえ、という声がときおりおこるけれども、贈答はいっこうに減らない。われわれは贈りものをしないと落ち着かないようにできているのかもしれない。同じ日本人なら、同じような気持ちをもっているから、ときにおかしいと思う人がいても、贈ればだいたい受け取って、形だけにしても、ありがたかった、うれしかった、と礼を言ってくれる。
 そういうことになれ切っていると、相手が外国人であっても、つい同じことをしてしまう。こちらが善意であれば、その気持ちだけはすくなくとも通じるだろうとのんきに考える。それがそうではないことがあるのだということは、苦い経験をしてからでないと、わからないからやっかいである。
 たとえば、アメリカ人にとって日本式の贈りものがどういうように受け取られるか。これについてはこういうエピソードがある。
 日本に住むあるアメリカ人が隣家の日本人の奥さんからある日、くだものをもらった。くれたのは奥さんだが、奥さんが買ってきたものではない。奥さんのところへ来た知り合いが奥さんに贈ったものだ。この知人はクルマで来て、そのアメリカ人の庭先へ駐車させてもらった。奥さんとアメリカ人との間で、必要なときには自由に使っていいという話のついている庭先である。しかし客は知らん顔ではまずいと思った。奥さんにもってきたくだものを、アメリカ人にあげてくれと頼んだ。奥さんにはまた別のものを考えると言うのであろう。奥さんは言われるままに、客が帰ったあと、くだものをもってアメリカ人のところへ来たのである。
 ところがアメリカ人は喜ばない。どうしてくれるのかわからないのだ。やるといわれても、迷惑だと感じる。こちらがくだもの好きだとわかってくれたのではない、しかも、会ったこともない人からのくだものをどうして受け取れるか。相手はかまわず、そういうものをくれるのは、こちらの人間、個性を無視していて、おもしろくない。駐車させてもらってありがたいと思ったなら、なぜ本人がやってきて、ひとこと、ありがとう、と言ってくれないか。そのほ∵うがわけのわからないくだものをもらうよりどれだけうれしいか知れない。会えば、知り合いになるチャンスだって生まれる……。そんな風に感じたが、このアメリカ人は結局、隣の奥さんのくだものを受け取った。断っては、奥さんの顔をつぶすことになるだろうという日本的考え方をしたものである。
 プレゼントをしていいのは、相手の好み、趣味をよく知っていて、それに合ったものがあるときである。奥さんのところへもってきたものを、そのまま隣家のアメリカ人へまわすのは、送り先の人のことを無視するのもいいところで、はなはだまずい。
 贈りものはときとして、とんだ災難のもとになることもある。
 日本で勉強しているアメリカ人の女子大生が、バイクでジグザグ走行していてトラックに接触、転倒し、軽い怪我をした。入院したが、非は自分側にあると思っていたから、トラックを責める気はまったくなかった。ところが、トラックの運転手は、いくら自分の責任ではないにしても、現に相手は入院している。放っておけない気がしたのだろう。ブドウをもって見舞いに行った。これがいけなかった。それまでは神妙だったアメリカ人学生は、そこで考えを一変させた。この運転手は自分にワイロを贈ろうとした。悪い人間である。事故はこの運転手によっておこった。というような話をつくり上げてしまったのである。
 トラック会社と運転手を訴えて、裁判に勝ち、トラック会社から多額の賠償金をせしめることに成功した。ずいぶん高いことについたブドウである。善意がとんでもない解釈をされて仇(あだ)になってしまった。贈りものの文化が万国共通のものではないことを知らないでおこった小悲劇である。ことにあまり意味のないプレゼントをするのになれていると、つい気軽に人にものを進呈しがちになる。相手をよく考えてからでないと贈りものをしてはいけない。国際的な場面においてはとくにそれに注意する必要がある。

(外山滋比古(とやましげひこ)『英語の発想・日本語の発想』)