1. 【1】
衰弱したアイデンティティのぎりぎりの補強、それを個人レベル、感覚レベルでみればたぶん「清潔願望」になる。【2】じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだけのもの、独自のものがあるのかどうか確信がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質なもの、それにちょっとでも
接触することをすごく
怖がる。【3】じぶんでないものに感染することでじぶんが
崩れてしまう、そういう
恐ろしさにがんじがらめになるのだ。じぶんのなかになんの
根拠もないまま、じぶんの同一性を確保しようとするなら、〜ではないというかたちで、
ネガティヴにじぶんを規定するしかない。【4】じぶんは女ではない、子どもではない、白人ではない、病気ではない……
2. そういうことすら不可能なとき、ぼくらはじぶんでないもの、他なるものの感染、あるいはそれとの
接触を
徹底して
回避しようとする。【5】清潔
症候群(シンドローム)というのも、まさにそういうコンテクストで現われてきたのではないだろうか。
3. 六十代後半のさる高名な数学者が、かつてぼくにこんな話をしてくださったことがある。【6】その先生は、じぶんの
娘がまだ高校生のころ、お父さんをとにかく
汚いと感じていたらしく、いくら話しかけても
殻に閉じこもって、とにかく父親とは音信不通という状態が長く続いたそうだ。【7】それが、
結婚し子どもを産んだとたん、日常のこと、小説のことと、いろいろじぶんにしゃべりかけてきたという。読んでおもしろかった小説を
交換したり、映画のはなしをしたりといろんなコミュニケーションの回路が開かれてきたとおっしゃるのだ。【8】これは、
お嬢さんがご主人という他者と身体的な交感をもちはじめたこと、栄養
摂取から
排泄まで子どもの生理の全過程とつきあいだしたことと、無関係ではなかろうとおもう。【9】
お嬢さんの場合、
結婚を機に、
透明のカプセルでじぶんの存在を他者から
隔離することが不可能になったということが大きいとおもう。【0】他者を
排除することによってではなく、他者との
交錯、他者とのやりとりのただなかで、そのつどじぶんをかたどっていくというやりかたにいやがおうでも
引き込まれていったのだ。∵
4. ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言いかたをすると、ぼくらには「他者の他者」としてはじめてじぶんを経験できるというところがある。ぼくらはじぶんをだれかある他人にとって意味のある存在として確認できてはじめて、じぶんの存在を実感できるということだ。(中略)
5. ロナルド・D・レインという精神医学者は、ひとは「じぶんの行動が意味するところを他者に知らされることによって、つまり
彼のそうした行動が他者に
及ぼす「効果」によって、じぶんが何者であるかを教えられる」と言っている。つまり、ぼくがぼくでありうるためには、ぼくは他の「わたし」の世界のなかにある一つの場所をもっているのでなければならないということだ。それが他者の他者としてのじぶんの存在ということである。
6. そういう他者の他者としてのじぶんの存在が
欠損しているとき、ぼくらは、他者にとって意味のあるものとしてのじぶんを経験できない。他者という鏡がないと、ぼくらはじぶん自身にすらなれないということだ。
7. このことは、自他の
相互的な関係だけでなく、教える/教えられるという関係、看護する/看護されるという関係のように、一見一方通行的な関係についてもいえる。教師も看護婦も、教育や看護の現場でまさに他者へとかかわっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの「わたし」の自己同一性を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話をしてあげる」という意識がこっそり
忍び込んできて、自分は生徒や
患者という他者たちとの関係をもたなくても「わたし」でありうる、という
錯覚にとらわれてしまう。そしてそのとき、「わたし」の経験から他者が遠のいていく。
8. 他者の他者としてのじぶんを意識できないとき、ぼくらの自己意識はぐらぐら
揺れる。あるいはとても
希薄になる。そういうとき、ぼくらは
皮膚感覚という、あまりにも
即物的な境界にこだわりだすのではないだろうか。自他の境界の最後のバリヤーとして。そしてそのバリヤー、つまりじぶんの最後の
防壁を、
過剰に防衛しようというのが、異物との
接触を
徹底して
回避しようとするいわゆる清潔シンドロームだったのではないか。 (
鷲田清一)