長文集  9月3週  ★衰弱したアイデンティティの(感)  mi-09-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2013/06/05 20:03:06
 【1】衰弱したアイデンティティのぎりぎ
りの補強、それを個人レベル、感覚レベルで
みればたぶん「清潔願望」になる。【2】じ
ぶんがだれかということがよくわからなくな
るとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだ
けのもの、独自のものがあるのかどうか確信
がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじ
みのないもの、異質なもの、それにちょっと
でも接触することをすごく怖がる。【3】じ
ぶんでないものに感染することでじぶんが崩
れてしまう、そういう恐ろしさにがんじがら
めになるのだ。じぶんのなかになんの根拠も
ないまま、じぶんの同一性を確保しようとす
るなら、〜ではないというかたちで、ネガテ
ィヴにじぶんを規定するしかない。【4】じ
ぶんは女ではない、子どもではない、白人で
はない、病気ではない……
 そういうことすら不可能なとき、ぼくらは
じぶんでないもの、他なるものの感染、ある
いはそれとの接触を徹底して回避しようとす
る。【5】清潔症候群(シンドローム)とい
うのも、まさにそういうコンテクストで現わ
れてきたのではないだろうか。
 六十代後半のさる高名な数学者が、かつて
ぼくにこんな話をしてくださったことがある
。【6】その先生は、じぶんの娘がまだ高校
生のころ、お父さんをとにかく汚いと感じて
いたらしく、いくら話しかけても殻に閉じこ
もって、とにかく父親とは音信不通という状
態が長く続いたそうだ。【7】それが、結婚
し子どもを産んだとたん、日常のこと、小説
のことと、いろいろじぶんにしゃべりかけて
きたという。読んでおもしろかった小説を交
換したり、映画のはなしをしたりといろんな
コミュニケーションの回路が開かれてきたと
おっしゃるのだ。【8】これは、お嬢さんが
ご主人という他者と身体的な交感をもちはじ
めたこと、栄養摂取から排泄まで子どもの生
理の全過程とつきあいだしたことと、無関係
ではなかろうとおも う。【9】お嬢さんの
場合、結婚を機に、透明のカプセルでじぶん
の存在を他者から隔離することが不可能にな
ったということが大きいとおもう。【0】他
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者を排除することによってではなく、他者と
の交錯、他者とのやりとりのただなかで、そ
のつどじぶんをかたどっていくというやりか
たにいやがおうでも引き込まれていったの 
だ。∵
 ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じ
られた領域のなかに確認することはできない
。ちょっとややこしい言いかたをすると、ぼ
くらには「他者の他者」としてはじめてじぶ
んを経験できるというところがある。ぼくら
はじぶんをだれかある他人にとって意味のあ
る存在として確認できてはじめて、じぶんの
存在を実感できるということだ。(中略)
 ロナルド・D・レインという精神医学者は
、ひとは「じぶんの行動が意味するところを
他者に知らされることによって、つまり彼の
そうした行動が他者に及ぼす「効果」によっ
て、じぶんが何者であるかを教えられる」と
言っている。つまり、ぼくがぼくでありうる
ためには、ぼくは他の「わたし」の世界のな
かにある一つの場所をもっているのでなけれ
ばならないということだ。それが他者の他者
としてのじぶんの存在ということである。
 そういう他者の他者としてのじぶんの存在
が欠損(けっそん)しているとき、ぼくらは
、他者にとって意味のあるものとしてのじぶ
んを経験できない。他者という鏡がないと、
ぼくらはじぶん自身にすらなれないというこ
とだ。
 このことは、自他の相互的な関係だけでな
く、教える/教えられるという関係、看護す
る/看護されるという関係のように、一見一
方通行的な関係についてもいえる。教師も看
護婦も、教育や看護の現場でまさに他者へと
かかわっていくのであり、そのかぎりで他者
からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそ
れぞれの「わたし」の自己同一性を補強して
もらっているはずなのだ。ところがここで、
「教えてあげる」「世話をしてあげる」とい
う意識がこっそり忍び込んできて、自分は生
徒や患者という他者たちとの関係をもたなく
ても「わたし」でありうる、という錯覚にと
らわれてしまう。そしてそのとき、「わたし
」の経験から他者が遠のいていく。
 他者の他者としてのじぶんを意識できない
とき、ぼくらの自己意識はぐらぐら揺れる。
あるいはとても希薄になる。そういうとき、
ぼくらは皮膚感覚という、あまりにも即物的
な境界にこだわりだすのではないだろうか。
自他の境界の最後のバリヤーとして。そして
そのバリヤー、つまりじぶんの最後の防壁を
、過剰に防衛しようというのが、異物との接
触を徹底して回避しようとするいわゆる清潔
シンドロームだったのではないか。 (鷲田
清一)