ミズキ の山 9 月 3 週 (5)
★衰弱したアイデンティティの(感)   池新  
 【1】衰弱したアイデンティティのぎりぎりの補強、それを個人レベル、感覚レベルでみればたぶん「清潔願望」になる。【2】じぶんがだれかということがよくわからなくなるとき、じぶんのなかにほんとうにじぶんだけのもの、独自のものがあるのかどうか確信がもてなくなるとき、ぼくらはじぶんになじみのないもの、異質なもの、それにちょっとでも接触することをすごく怖がる。【3】じぶんでないものに感染することでじぶんが崩れてしまう、そういう恐ろしさにがんじがらめになるのだ。じぶんのなかになんの根拠もないまま、じぶんの同一性を確保しようとするなら、〜ではないというかたちで、ネガティヴにじぶんを規定するしかない。【4】じぶんは女ではない、子どもではない、白人ではない、病気ではない……
 そういうことすら不可能なとき、ぼくらはじぶんでないもの、他なるものの感染、あるいはそれとの接触を徹底して回避しようとする。【5】清潔症候群(シンドローム)というのも、まさにそういうコンテクストで現われてきたのではないだろうか。
 六十代後半のさる高名な数学者が、かつてぼくにこんな話をしてくださったことがある。【6】その先生は、じぶんの娘がまだ高校生のころ、お父さんをとにかく汚いと感じていたらしく、いくら話しかけても殻に閉じこもって、とにかく父親とは音信不通という状態が長く続いたそうだ。【7】それが、結婚し子どもを産んだとたん、日常のこと、小説のことと、いろいろじぶんにしゃべりかけてきたという。読んでおもしろかった小説を交換したり、映画のはなしをしたりといろんなコミュニケーションの回路が開かれてきたとおっしゃるのだ。【8】これは、お嬢さんがご主人という他者と身体的な交感をもちはじめたこと、栄養摂取から排泄まで子どもの生理の全過程とつきあいだしたことと、無関係ではなかろうとおもう。【9】お嬢さんの場合、結婚を機に、透明のカプセルでじぶんの存在を他者から隔離することが不可能になったということが大きいとおもう。【0】他者を排除することによってではなく、他者との交錯、他者とのやりとりのただなかで、そのつどじぶんをかたどっていくというやりかたにいやがおうでも引き込まれていったのだ。∵
 ぼくらはじぶんの存在をじぶんという閉じられた領域のなかに確認することはできない。ちょっとややこしい言いかたをすると、ぼくらには「他者の他者」としてはじめてじぶんを経験できるというところがある。ぼくらはじぶんをだれかある他人にとって意味のある存在として確認できてはじめて、じぶんの存在を実感できるということだ。(中略)
 ロナルド・D・レインという精神医学者は、ひとは「じぶんの行動が意味するところを他者に知らされることによって、つまり彼のそうした行動が他者に及ぼす「効果」によって、じぶんが何者であるかを教えられる」と言っている。つまり、ぼくがぼくでありうるためには、ぼくは他の「わたし」の世界のなかにある一つの場所をもっているのでなければならないということだ。それが他者の他者としてのじぶんの存在ということである。
 そういう他者の他者としてのじぶんの存在が欠損(けっそん)しているとき、ぼくらは、他者にとって意味のあるものとしてのじぶんを経験できない。他者という鏡がないと、ぼくらはじぶん自身にすらなれないということだ。
 このことは、自他の相互的な関係だけでなく、教える/教えられるという関係、看護する/看護されるという関係のように、一見一方通行的な関係についてもいえる。教師も看護婦も、教育や看護の現場でまさに他者へとかかわっていくのであり、そのかぎりで他者からの逆規定を受け、さらにそのかぎりでそれぞれの「わたし」の自己同一性を補強してもらっているはずなのだ。ところがここで、「教えてあげる」「世話をしてあげる」という意識がこっそり忍び込んできて、自分は生徒や患者という他者たちとの関係をもたなくても「わたし」でありうる、という錯覚にとらわれてしまう。そしてそのとき、「わたし」の経験から他者が遠のいていく。
 他者の他者としてのじぶんを意識できないとき、ぼくらの自己意識はぐらぐら揺れる。あるいはとても希薄になる。そういうとき、ぼくらは皮膚感覚という、あまりにも即物的な境界にこだわりだすのではないだろうか。自他の境界の最後のバリヤーとして。そしてそのバリヤー、つまりじぶんの最後の防壁を、過剰に防衛しようというのが、異物との接触を徹底して回避しようとするいわゆる清潔シンドロームだったのではないか。 (鷲田清一)