長文集  9月2週  ★何ごとぞ花見る人の長刀(感)  mi-09-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】何ごとぞ 花見る人の長刀(ながが
たな)
 花見に平素の身分・階層をもちこむのは野
暮(やぼ)というものだ。花見に行って武士
の権威をふりまわすような輩は、「なんだサ
ンピン、えらそうにするな」と町人どもから
反発をくらうことになる。
 【2】花見にケンカはつきものである。花
見には、町内や職域といった小共同体の仲間
が、つれだって出かけることが多い。それは
新しく共同体意識をもりあげようとするか、
あるいはこわれかかった共同体意識をたてな
おそうとするのに利用される。【3】だが花
見の場合は、あくまで小共同体意識にとどま
り、大共同体意識になれない。そこで小共同
体同士がいがみあいを起こしがちだ。花見ど
きのケンカといえば、個人同士のやりあいよ
りも団体客の乱闘が多いのは、そのためであ
ろう。
 【4】桜の花は、日本民族のシンボルとし
て、大共同体意識の中核に置かれたが、現実
の花見はついにそこまで至っていない。
 花見とならんで、月見と雪見――この三つ
が日本人の自然観賞の基本になっているが、
月・雪・花、そのいずれもがうつろいやすい
ものという共通点がある。【5】月はいつも
満月ではありえない し、雪はいつかとけて
消え去る。花の生命は短い。満開だと思って
いたら、一夜の雨風ですぐ散ってしまう。そ
うだからこそ、うつろいやすいものを惜しむ
心が、時候に合わした会合の珍しさを貴ぶの
だ。【6】自然の有為転変をながめては、人
の生命のはかなさだけでなく、社会もつねに
移り変わってゆくのだという気持ちが、日本
人の心のどこかに絶えず潜んでいるのである

 【7】だいたい日本人は「見る」というこ
とに重要な意味を与える。百聞は一見にしか
ずということわざの示すとおり、いくら本を
読み頭で理解していても、現場を見たものに
は、たちうちできないのだ。【8】自分の目
で見なければ、認識の根拠としてすこぶる薄
弱だとする意識がある。いうなれば現場主義
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であり、体験主義であり、実証主義である。
日本人のカメラ好きも、絵葉書では満足でき
ぬ「自分の目で見て確かめる」実証主義のな
せるわざであろう。
 【9】さらにいえば、日本の社交の基本は
「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同
士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love
 you)」
などとはけっしていわない。【0】そんな言
葉を口に出さなくと も、満∵月を仰ぎ見て

「いいお月さんですね」
 そして、二人でじっと空を見上げるだけで
、意思は十分通じるのだ。「月が鏡であった
なら」という歌の文句があるように、この場
合、お月さんは二人の心のリフレクターの役
割をする。つまり、日本では、言葉でなく、
物理的対象物をともに見ることで、社交が成
り立つのだ。そう考えてくると、月見、花見
、雪見といった集団的な観賞行為は、じつは
、日本文化のなかでのコミュニケーションの
方法でもある、といわなければなるまい。月
、雪、花は人と人をむすびつける触媒なので
ある。西洋のように、しゃべることが社交の
基本になっているところでは、話がとぎれる
となにか気まずい思いをしなければならない
。日本人なら、だまってなにかをながめるこ
とでも、会話は進行しうるのだ。
 芝居を「総見(そうけん)」するなどとい
うが、これも舞台で演じられている所作(し
ょさ)をみながいっしょに見ることに意味が
ある。見ることに力点をかけた社交の場が、
芝居の総見なのであ る。おしゃべり一本だ
と、話題がとぎれたときに、白々しい感じが
のこる。共通の「見る」対象物を一つおいて
おけば、そういう緊張感はなくなる。しゃべ
りたくなったらしゃべればいいし、しゃべる
ことがなくなったら、見ているだけでいい。
日本の劇場がザワザワとしているのは、西洋
の観劇エチケットからすれば、たいへん不作
法なことかもしれぬが、それはそれで、ちゃ
んと機能をもっているのである。
 花見が最も庶民的なマス・レジャーである
のも故なしとしない。

(林屋辰三郎他『日本人の知恵』)