ミズキ の山 9 月 2 週 (5)
★何ごとぞ花見る人の長刀(感)   池新  
 【1】何ごとぞ 花見る人の長刀(なががたな)
 花見に平素の身分・階層をもちこむのは野暮(やぼ)というものだ。花見に行って武士の権威をふりまわすような輩は、「なんだサンピン、えらそうにするな」と町人どもから反発をくらうことになる。
 【2】花見にケンカはつきものである。花見には、町内や職域といった小共同体の仲間が、つれだって出かけることが多い。それは新しく共同体意識をもりあげようとするか、あるいはこわれかかった共同体意識をたてなおそうとするのに利用される。【3】だが花見の場合は、あくまで小共同体意識にとどまり、大共同体意識になれない。そこで小共同体同士がいがみあいを起こしがちだ。花見どきのケンカといえば、個人同士のやりあいよりも団体客の乱闘が多いのは、そのためであろう。
 【4】桜の花は、日本民族のシンボルとして、大共同体意識の中核に置かれたが、現実の花見はついにそこまで至っていない。
 花見とならんで、月見と雪見――この三つが日本人の自然観賞の基本になっているが、月・雪・花、そのいずれもがうつろいやすいものという共通点がある。【5】月はいつも満月ではありえないし、雪はいつかとけて消え去る。花の生命は短い。満開だと思っていたら、一夜の雨風ですぐ散ってしまう。そうだからこそ、うつろいやすいものを惜しむ心が、時候に合わした会合の珍しさを貴ぶのだ。【6】自然の有為転変をながめては、人の生命のはかなさだけでなく、社会もつねに移り変わってゆくのだという気持ちが、日本人の心のどこかに絶えず潜んでいるのである。
 【7】だいたい日本人は「見る」ということに重要な意味を与える。百聞は一見にしかずということわざの示すとおり、いくら本を読み頭で理解していても、現場を見たものには、たちうちできないのだ。【8】自分の目で見なければ、認識の根拠としてすこぶる薄弱だとする意識がある。いうなれば現場主義であり、体験主義であり、実証主義である。日本人のカメラ好きも、絵葉書では満足できぬ「自分の目で見て確かめる」実証主義のなせるわざであろう。
 【9】さらにいえば、日本の社交の基本は「見る」ことで成立する。若い男女の恋人同士が愛の告白をするとき、西洋人のように、
「私はあなたを愛しています(I love you)」
などとはけっしていわない。【0】そんな言葉を口に出さなくとも、満∵月を仰ぎ見て、
「いいお月さんですね」
 そして、二人でじっと空を見上げるだけで、意思は十分通じるのだ。「月が鏡であったなら」という歌の文句があるように、この場合、お月さんは二人の心のリフレクターの役割をする。つまり、日本では、言葉でなく、物理的対象物をともに見ることで、社交が成り立つのだ。そう考えてくると、月見、花見、雪見といった集団的な観賞行為は、じつは、日本文化のなかでのコミュニケーションの方法でもある、といわなければなるまい。月、雪、花は人と人をむすびつける触媒なのである。西洋のように、しゃべることが社交の基本になっているところでは、話がとぎれるとなにか気まずい思いをしなければならない。日本人なら、だまってなにかをながめることでも、会話は進行しうるのだ。
 芝居を「総見(そうけん)」するなどというが、これも舞台で演じられている所作(しょさ)をみながいっしょに見ることに意味がある。見ることに力点をかけた社交の場が、芝居の総見なのである。おしゃべり一本だと、話題がとぎれたときに、白々しい感じがのこる。共通の「見る」対象物を一つおいておけば、そういう緊張感はなくなる。しゃべりたくなったらしゃべればいいし、しゃべることがなくなったら、見ているだけでいい。日本の劇場がザワザワとしているのは、西洋の観劇エチケットからすれば、たいへん不作法なことかもしれぬが、それはそれで、ちゃんと機能をもっているのである。
 花見が最も庶民的なマス・レジャーであるのも故なしとしない。

(林屋辰三郎他『日本人の知恵』)