1. その少年はまるまると太っていて、いつも
腕白であった。クラスの中でもとりわけ貧しい家の子供で、給食費などは期限どおりに納めたことは一度もなかった。あるとき、私は少年に、
2.「おまえ、なんでそないに太ってるねん?」
3. と
訊いた。小さい
頃から「青びょうたん」とあだ名をつけられていた
痩せっぽちの私は、なんとか人並に太りたいと子供心に念じつづけていた。雪深い富山から、兵庫県の
尼崎に
引っ越してきて一カ月ばかりたった
頃、私が小学校五年生のときである。
4.「
寝る前に、たこ焼きを食べるんや」
5. 少年はそう教えてくれた。毎晩、夕刊を売って歩き、その
稼ぎでたこ焼きを買うのだと、
誰にも
内緒にしていた秘密まで打ち明けてくれたのだった。酒乱の父と、どんな仕事をしているのか判らないが、めったに家に帰ってこない母を待つその少年が、いたしかたなく自力で金を
稼ぎ出し、毎夜毎夜、たこ焼きばかりを食べつづけていたことなど私は知る由もなかった。
6.「
僕も夕刊を売って、たこ焼きを買うんや」
7. 私がそう言うと、母は血相を変えて反対した。父は笑って、
8.「ぎょうさん
儲けて、お父ちゃんにもおごってや」
9. と許してくれた。
10. 当時、
阪神電車の
尼崎駅周辺には、小さい屋台や小料理店が
軒を並べ、ならず者たちが
凍てつく露地のあちこちにたむろしていた。私は少年とつれだって、夕刊の束を
小脇に、飲み屋のノレンをくぐっていった。
11.
誰も夕刊を買ってはくれなかった。しつこく売りつけようとして
酔っぱらいに
突き飛ばされたり、
尻を
蹴られたりもした。寒風の
吹きすさぶ大通りから、
裸電球のともる
薄暗い露地に
もぐり込み、
一軒一軒新聞を売り歩いているうちに、私はだんだん情けなくなり、家に帰りたくなってきた。だが、断られても断られても夕刊売りをやめようとしない少年に引きずられて、
夜更けまで場末の飲み屋街を歩きつづけたのだった。∵
12.「きょうは調子が悪いなァ……」
13. と少年が立ち停まった。
14.「……
僕、もう帰らんと
怒られる」
15. その言葉で、少年は私から新聞の束を受け取り、
16.「
僕はもうちょっとねばってみるさかい」
17.と言い残して、再び暗い
露地へと消えて行った。私は体中が
凍えていた。夜道を
震えながら帰った。家に入ろうとしたとき、
誰かの歩いて来る音が聞こえた。父であった。父は「おかえり」と言って私の耳を
掌で包んでくれた。その夜、銭湯からの帰り道、父がさとすように
呟いた。
18.「おまえのたこ焼きと、あの子のたこ焼きとは、味が
違うんやでェ」
19. それからちょうど十年後に父は死んだ。父の死後、何かの折に、夕刊を売り歩いた一夜の思い出を母に語った。そしてそのとき母から、あの夜、
尼崎の
歓楽街で新聞を売り歩く私のあとを、父が最初から最後までずっと
尾けていてくれたことを聞いたのであった。
20. いまでもときおり、場末の
歓楽街を歩いているときなど、
露地のくらがりからまるまると太ったあの少年が、夕刊の束をかかえて走り出てくる
幻想にかられる。そんなとき、オーバーで身を包んだ父が、
物陰からじっと私を見ているような気もするのである。
21.(宮本
輝『夕刊とたこ焼』)