長文集  8月4週  ○その少年はまるまると  mi-08-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:50:24
 その少年はまるまると太っていて、いつも
腕白であった。クラスの中でもとりわけ貧し
い家の子供で、給食費などは期限どおりに納
めたことは一度もなかった。あるとき、私は
少年に、
「おまえ、なんでそないに太ってるねん?」
 と訊(き)いた。小さい頃から「青びょう
たん」とあだ名をつけられていた痩せっぽち
の私は、なんとか人並に太りたいと子供心に
念じつづけていた。雪深い富山から、兵庫県
の尼崎に引っ越してきて一カ月ばかりたった
頃、私が小学校五年生のときである。
「寝る前に、たこ焼きを食べるんや」
 少年はそう教えてくれた。毎晩、夕刊を売
って歩き、その稼ぎでたこ焼きを買うのだと
、誰にも内緒にしていた秘密まで打ち明けて
くれたのだった。酒乱の父と、どんな仕事を
しているのか判らないが、めったに家に帰っ
てこない母を待つその少年が、いたしかたな
く自力で金を稼ぎ出し、毎夜毎夜、たこ焼き
ばかりを食べつづけていたことなど私は知る
由もなかった。
「僕も夕刊を売って、たこ焼きを買うんや」
 私がそう言うと、母は血相を変えて反対し
た。父は笑って、
「ぎょうさん儲けて、お父ちゃんにもおごっ
てや」
 と許してくれた。
 当時、阪神電車の尼崎駅周辺には、小さい
屋台や小料理店が軒を並べ、ならず者たちが
凍てつく露地のあちこちにたむろしていた。
私は少年とつれだって、夕刊の束を小脇に、
飲み屋のノレンをくぐっていった。
 誰も夕刊を買ってはくれなかった。しつこ
く売りつけようとして酔っぱらいに突き飛ば
されたり、尻を蹴られたりもした。寒風の吹
きすさぶ大通りから、裸電球のともる薄暗い
露地にもぐり込み、一軒一軒新聞を売り歩い
ているうちに、私はだんだん情けなくなり、
家に帰りたくなってきた。だが、断られても
断られても夕刊売りをやめようとしない少年
に引きずられて、夜更けまで場末の飲み屋街
を歩きつづけたのだった。∵
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
「きょうは調子が悪いなァ……」
 と少年が立ち停まった。
「……僕、もう帰らんと怒られる」
 その言葉で、少年は私から新聞の束を受け
取り、
「僕はもうちょっとねばってみるさかい」
と言い残して、再び暗い露地へと消えて行っ
た。私は体中が凍えていた。夜道を震えなが
ら帰った。家に入ろうとしたとき、誰かの歩
いて来る音が聞こえた。父であった。父は「
おかえり」と言って私の耳を掌で包んでくれ
た。その夜、銭湯からの帰り道、父がさとす
ように呟いた。
「おまえのたこ焼きと、あの子のたこ焼きと
は、味が違うんやで ェ」
 それからちょうど十年後に父は死んだ。父
の死後、何かの折に、夕刊を売り歩いた一夜
の思い出を母に語った。そしてそのとき母か
ら、あの夜、尼崎の歓楽街で新聞を売り歩く
私のあとを、父が最初から最後までずっと尾
(つ)けていてくれたことを聞いたのであっ
た。
 いまでもときおり、場末の歓楽街を歩いて
いるときなど、露地のくらがりからまるまる
と太ったあの少年が、夕刊の束をかかえて走
り出てくる幻想にかられる。そんなとき、オ
ーバーで身を包んだ父が、物陰からじっと私
を見ているような気もするのである。

(宮本輝『夕刊とたこ焼』)