1. 自分に友達のできないのは、口が重く、しゃべることが下手で、相手を引きつけたり、
悦ばせたりできないからだと思っている人も少なくない。しかしこの種の人も、人間というものは、こちらの言うことなどをそんなに注意してきいているものではないと考えることによって、気持ちが楽にならないだろうか。何かすばらしいことを自分が言うと相手が期待していないだろうかと考えるために、ますます口が重くなる。だが、世のなかで、自分の言うことにいちばん耳を
傾けているのは、ほかならぬ自分自身であることを知っておくのはむだではあるまい。何かつまらないことを言って笑われはしまいか、
軽蔑されはしまいかと心配するのは、相手が自分の言葉に耳をすませているだろうと思っている一種の
自惚である。こちらが不安と心配で胸をドキドキさせてしゃべっているときでも、別のことを考えているばあいが多いのである。まさにアランの言う「対象のない
恐怖」であって、そんなことにくよくよするのは全く意味のないことである。
2. 「自分を虫けらだと思っている者は人に
踏みにじられる」という格言がフランスにあるが、他人から尊重されるには、まず自分で自分を尊重することが第一である。われながらつまらないヤツだと思っている人間に、他人が敬意を
払うはずがあるまい。自分は人に好かれない人間だと思っているかぎり、自分を好いてくれる人はないだろう。人間というものは、いつも友達を欲しそうにして
卑屈な愛想笑いをしている人間よりも、
孤高の態度をくずさない人間に対して、むしろ友情を求めたがるものである。無益な
劣等感を
棄てるに
越したことはない。
3. 友達ができないことを
嘆く人に次に問いたいことは、あなたは自分の周囲に何か冷たい空気を流していないだろうかということである。私がこれまでくり返し書いてきたように、友情というものは、まずこちらから何かを、しかも何らの
報酬を期待することなしに
与えることによって成り立つ。
与えることが、無際限に
与えること自体が
悦びであるのが真の友情というものである。われわれの
与えうるものには限度があるからである。そこに友人の
選択が起こるのであるが、自分の選んだ人で、その人のためには何を
与えても
惜しくないという友人をもつことは至福ではないだろうか。∵
4. 私が冷たい空気というのは、好きな人にはすべてを
与えるというこの心意気の
乏しいことを意味する。最初から
与える気持ちの全然ない人に友達のできるはずがないが、たとえ
与える気持ちがあっても、その
代償をひそかに期待するようでは真の友情は結ばれない。人間は
敏感であるから、
報酬を期待して
与えられる友情は、これを無意識のうちに見破って、
警戒する。友達のできないことを
嘆く人は、この種の、他人をして
警戒せしめるものが自分にないかどうかを十分に反省してみる必要があろう。それと同時に注意すべきことは、他人から
報酬を期待しない友情を
与えられながら、それを素直に、心から
悦んで受け入れることをしないで、これには何らかの目的があるのではないかと
警戒することであろう。この種の
警戒心もまた冷たい空気となって諸君をつつみ、友達をよせつけない。
一般に、友達のないことを
嘆く人には、この冷たい
警戒心で無意識のうちに武装している人が多いように思われる。
5. 私が何かを
与えるというのは、もちろん物質的なものばかりを意味するのではない。生まれつきさまざまの
魅力を具えている人は、
与えるものを多くもつ人である。問題は
与えるものの
乏しい人にある。自分は何を
無償で人に
与えることができるかを考えるとき、よき友達はおのずから作られるにちがいない。
6.(
河盛好蔵の文章による)