ミズキ の山 8 月 3 週 (5)
★いったい臆病とは(感)   池新  
 自分に友達のできないのは、口が重く、しゃべることが下手で、相手を引きつけたり、悦(よろこ)ばせたりできないからだと思っている人も少なくない。しかしこの種の人も、人間というものは、こちらの言うことなどをそんなに注意してきいているものではないと考えることによって、気持ちが楽にならないだろうか。何かすばらしいことを自分が言うと相手が期待していないだろうかと考えるために、ますます口が重くなる。だが、世のなかで、自分の言うことにいちばん耳を傾けているのは、ほかならぬ自分自身であることを知っておくのはむだではあるまい。何かつまらないことを言って笑われはしまいか、軽蔑されはしまいかと心配するのは、相手が自分の言葉に耳をすませているだろうと思っている一種の自惚(うぬぼれ)である。こちらが不安と心配で胸をドキドキさせてしゃべっているときでも、別のことを考えているばあいが多いのである。まさにアランの言う「対象のない恐怖」であって、そんなことにくよくよするのは全く意味のないことである。
 「自分を虫けらだと思っている者は人に踏みにじられる」という格言がフランスにあるが、他人から尊重されるには、まず自分で自分を尊重することが第一である。われながらつまらないヤツだと思っている人間に、他人が敬意を払うはずがあるまい。自分は人に好かれない人間だと思っているかぎり、自分を好いてくれる人はないだろう。人間というものは、いつも友達を欲しそうにして卑屈な愛想笑いをしている人間よりも、孤高の態度をくずさない人間に対して、むしろ友情を求めたがるものである。無益な劣等感を棄(す)てるに越したことはない。
 友達ができないことを嘆く人に次に問いたいことは、あなたは自分の周囲に何か冷たい空気を流していないだろうかということである。私がこれまでくり返し書いてきたように、友情というものは、まずこちらから何かを、しかも何らの報酬を期待することなしに与えることによって成り立つ。与えることが、無際限に与えること自体が悦びであるのが真の友情というものである。われわれの与えうるものには限度があるからである。そこに友人の選択が起こるのであるが、自分の選んだ人で、その人のためには何を与えても惜しくないという友人をもつことは至福ではないだろうか。∵
 私が冷たい空気というのは、好きな人にはすべてを与えるというこの心意気の乏しいことを意味する。最初から与える気持ちの全然ない人に友達のできるはずがないが、たとえ与える気持ちがあっても、その代償をひそかに期待するようでは真の友情は結ばれない。人間は敏感であるから、報酬を期待して与えられる友情は、これを無意識のうちに見破って、警戒する。友達のできないことを嘆く人は、この種の、他人をして警戒せしめるものが自分にないかどうかを十分に反省してみる必要があろう。それと同時に注意すべきことは、他人から報酬を期待しない友情を与えられながら、それを素直に、心から悦んで受け入れることをしないで、これには何らかの目的があるのではないかと警戒することであろう。この種の警戒心もまた冷たい空気となって諸君をつつみ、友達をよせつけない。一般に、友達のないことを嘆く人には、この冷たい警戒心で無意識のうちに武装している人が多いように思われる。
 私が何かを与えるというのは、もちろん物質的なものばかりを意味するのではない。生まれつきさまざまの魅力を具えている人は、与えるものを多くもつ人である。問題は与えるものの乏しい人にある。自分は何を無償で人に与えることができるかを考えるとき、よき友達はおのずから作られるにちがいない。

(河盛(かわもり)好蔵(よしぞう)の文章による)