長文集  8月2週  ★吉川(きつかわ)のパスは(感)  mi-08-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】吉川(きつかわ)のパスは蹴った者
の意思がのり移ってでもいるかのように、全
力疾走中の宗介(そうすけ)の右足に吸い付
いてきた。宗介(そうすけ)はただそのボー
ルをエンドラインぎりぎりまで持ち込んでセ
ンターリングを上げればよかった。【2】反
対方向から走り込んできたフォワードの連中
がへディングなりダイレクトなりでシュート
を決めてくれるのだった。
 (中略)
 秋の都大会では決勝まで進み、延長戦でも
決着がつかなかったのでペナルティーキック
合戦にまでもつれこみ、結局準優勝に甘んじ
た。【3】大会中の目立った選手がベストイ
レブンに選ばれたのだが、やはり優勝チーム
から選出される者が多く、技術的には優勝チ
ームの同じポジションの選手を上回っていた
吉川(きつかわ)は選にもれた。
 【4】冬に例年にない走り込みをして、今
年こそは優勝を、と団結を強めていたのだが
、三年の夏休みを前にした暑い午後、宗介(
そうすけ)はコーチの浅野に退部を申し出た
。【5】前日、夏休みの練習計画が浅野から
発表されたのだが、毎日朝九時から夕方六時
まで練習メニューが決められ、休日は一日も
なかった。吉川(きつかわ)という天才的な
選手を得て、都大会優勝は今年を逃しては当
分無理だ、と読んだ浅野の決意の表われた計
画表であった。
 【6】宗介(そうすけ)の学業成績は、も
う少し頑張れば進学校といわれる都立高校に
手が届く程度のものだった。ドリブルしなが
らフェイントをかけるとき、どうにもならな
い生来(せいらい)の体の硬さをよく知って
いたので、サッカープレイヤーとして一人前
になれないことは分かっていた。【7】夏の
練習に参加すれば受験勉強ができなくなる。
「退部します。お世話になりました」
 すでに練習が始まっている校庭の花壇の前
で、トレーニングウエア姿の浅野に向かって
宗介(そうすけ)は頭を下げた。
【8】「冗談はよせ」
 浅野は首にかけたホイッスルをタバコでも
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すうように口にくわえた。よく陽(ひ)に焼
けた狭い額の皺の中から大粒の汗が湧いてい
た。
「本気です。辞めさせて下さい」∵
 【9】チームメイトたちが円陣キックをし
ながらこちらを注目していたので、宗介(そ
うすけ)は今度は頭を下げなかった。
「ああやって懸命に練習している仲間を裏切
るのか」
 【0】浅野は花壇のひまわりの茎をつかん
だが、語尾の震えとともに折りとってしまっ
た。
「自分の生き方を自分で決めただけです」
 青く高い夏空の下で、中学三年の宗介(そ
うすけ)はためらうことなく言い切った。
 浅野は手にした大輪のひまわりを乾いた地
面に叩きつけ、円陣の方に歩み去った。黄色
い花びらが宗介(そうすけ)のズボンの裾に
散った。
 右ウイングの自分が抜けても、実力にほと
んど差のない二年生の補欠を補充すれば、チ
ーム全体の力は落ちない。誰にも相談せずに
退部を決めた宗介(そうすけ)があくまで個
人的な問題なのだと自らを納得させていたの
にはこんな状況判断があったからだった。し
かし、事態は彼の予想しなかった方向に広が
ってしまった。
 宗介(そうすけ)が辞めたのを知った三年
生のレギュラーたちが翌日から次々に退部を
申し出るようになってしまった。宗介(そう
すけ)よりもはるかに成績のよいゴールキー
パーの菅井やハーフの堀田までもが受験勉強
を理由に辞め、夏休みの前日になって残った
三年生のレギュラーは吉川(きつかわ)一人
になってしまった。
 学校の花形クラブであるサッカー部の三年
生の大量退部は職員会議の話題にもなったよ
うだが、理由が受験勉強に専念したい、とい
う至極(しごく)まっとうなものだったので
、校長や教頭も口をつぐんだままだった。
 一学期の終業式を終えて校門を出るところ
で、宗介(そうすけ)はユニフォーム姿の吉
川(きつかわ)に呼び止められた。吉川(き
つかわ)は照れたように目を細めながら自転
車置場の方に手招きした。
「おれはさあ、頭もよくねえし、板前にでも
なっておふくろの店手伝うしかねえんだけど
、サッカーやりてえんだ」∵
 スレート屋根の下の日陰はひんやりしてい
た。吉川(きつかわ)はスパイクの裏のアル
ミピンで柱を蹴りながら下を向いて話してい
た。
「都大会のベストイレブンになれたら、私立
高校のサッカー部に特待生で入れるかと思っ
てな。おれはさあ、そう思ってサッカーやっ
てきたんだ。板前になる前にサッカーで花咲
かしてみたくてな。おれの、夢だな。あの小
せえ店に入る前に、夢くらい見たっていいと
思ってな」
 吉川(きつかわ)は下を向いたままいつの
間にか泣いていた。乾いた砂の上に落ちる涙
は夕立の雨つぶよりも大きかった。
「悪いな」
 宗介(そうすけ)はもっとこの場に適した
言葉を見つけられない自分にいらだった。い
っそ殴ってくれたら、このいらだちも解消す
るのに、と思った。
「いや、いいんだ。ただ、おれのグチも聞い
てもらいたくてさ。気にすんな。おまえ、い
いウイングだったよ」
 吉川(きつかわ)は顔を洗うように両手で
涙を拭くと、そのまま走って行って新しいチ
ームのシュート練習に加わった。
 宗介(そうすけ)は砂の上に残る吉川(き
つかわ)の涙の跡をしばらく見つめていたが
、やがて大きな深呼吸とともに靴で消し、校
庭を振り返らずに校門を出た。
 
 (南木(なぎ)佳士(けいし)の文章によ
る)