長文 7.4週
1. ある朝、少年は、目覚めるなり、「山へ登ろうよ。」と女の子に言った。「山へ登るの。」女の子は少年に問いかえすように言ったが、少年が、「うん、山や、裏の山や。松の木に登って、港を見ようよ。」とせきこんで言うと、女の子はしばらく少年を見つめていて、やがて、「うち、山なんか登ったことあらへん。」と、許しを請うこ ように、おどおどと言った。女の子は足が悪くて山へ登ることができなかったのだ。だが、かがやいていた少年のまなざしが、みるみるくもっていくのを見ると、「ぼんは山へ登りたいの。」と言った。それから、「ぼんが登りたいんなら、うち行ってもええで。」としょんぼり言った。
2. 女の子は、裏木戸を出てがけはだにかかるところで、もう、右足のひざを手でかばいながら、やっと少年のあとをのろのろと追っているのであった。少年は、はじめ、そんなことに気づかなかった。女の子に少しでも早く尾根おねからの景色を見せたくて、一人で先に駆けか 登って行った。女の子も自分と同じように駆けか 登って来るように、少年は思っていたのだ。だが、二つ三つ、まがり角をまがってから、女の子の姿が見えないことに気づいた。「はようおいでよ。」大きな声でそう言って、それから不安になって、あとへ駆けか もどって行くと、女の子は、最初のまがり角をやっとまがりおえて、右足をひきずりながら懸命けんめいに登って来ていた。色のあせたメリンスの着物のひざぎりのすそから、真っ直ぐつっぱっている右足が見えた。そんなことは、毎日いっしょにいて、とっくに知っていたのだが、少年は、その時、はじめてそのことに気づいたように思った。
3. 少年が女の子のそばまでもどって行くと、女の子はいっそう懸命けんめいに足をひきずりながら、「うち、のろくってかんにんな。」と言った。女の子は、せいいっぱい笑いをほおにうかべようとしていた。そばかすが汗ばんあせ  でいる目のまわりにういてきていた。少年は、それが女の子の泣き出す前の表情であることを知っていた。少年には、女の子の大きな黒い目から、今にもぽたぽたとなみだがこぼれ落ちそうに思えたが、女の子はうれしそうに、にっこり笑ってみせて、「ぼん、はよ、行こ。」と言った。
4. 少年は、そうすれば女の子が歩きやすくなるなどということは考えてもみずに、女の子の右肩みぎかたへ自分の左肩ひだりかたをよせていって、女の∵子のからだの重みを自分で支えた。もう少年は尾根おねまで登ることはあきらめていた。だが、ついそこまで登れば、目の下に、港の黒いかわら屋根の並んだ町並や、いっぱいに汽船がうずまった港が見おろされるところがあることを思い出していた。せめて、そこまで、少年は、女の子を連れて行きたかったのだ。
5. 少年が、やっと女の子をその山肌やまはだまで連れて行くと、女の子は、「わっ。」とさけんで、日だまりへとびだして行った。女の子はすぐころんで、メリンスの着物には芝草しばくさがまみれたが、そんなことはどうでもいいように、女の子は、「うち、こんなとこに来たん、はじめてや。」とさけぶように少年に言った。女の子のからだいっぱいに春の日ざしがこぼれていた。

6.(田宮虎彦とらひこ『小さな赤い花』)