長文集  7月4週  ○ある朝、少年は、  mi-07-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:50:07
 ある朝、少年は、目覚めるなり、「山へ登
ろうよ。」と女の子に言った。「山へ登るの
。」女の子は少年に問いかえすように言った
が、少年が、「うん、山や、裏の山や。松の
木に登って、港を見ようよ。」とせきこんで
言うと、女の子はしばらく少年を見つめてい
て、やがて、「うち、山なんか登ったことあ
らへん。」と、許しを請うように、おどおど
と言った。女の子は足が悪くて山へ登ること
ができなかったのだ。だが、かがやいていた
少年のまなざしが、みるみるくもっていくの
を見ると、「ぼんは山へ登りたいの。」と言
った。それから、「ぼんが登りたいんなら、
うち行ってもええ  で。」としょんぼり言
った。
 女の子は、裏木戸を出て崖肌にかかるとこ
ろで、もう、右足のひざを手でかばいながら
、やっと少年のあとをのろのろと追っている
のであった。少年は、はじめ、そんなことに
気づかなかった。女の子に少しでも早く尾根
からの景色を見せたくて、一人で先に駆け登
って行った。女の子も自分と同じように駆け
登って来るように、少年は思っていたのだ。
だが、二つ三つ、まがり角をまがってから、
女の子の姿が見えないことに気づいた。「は
ようおいでよ。」大きな声でそう言って、そ
れから不安になって、あとへ駆けもどって行
くと、女の子は、最初のまがり角をやっとま
がりおえて、右足をひきずりながら懸命に登
って来ていた。色のあせたメリンスの着物の
ひざぎりの裾から、真っ直ぐつっぱっている
右足が見えた。そんなことは、毎日いっしょ
にいて、とっくに知っていたのだが、少年 
は、その時、はじめてそのことに気づいたよ
うに思った。
 少年が女の子のそばまでもどって行くと、
女の子はいっそう懸命に足をひきずりながら
、「うち、のろくってかんにんな。」と言っ
た。女の子は、せいいっぱい笑いを頬にうか
べようとしていた。そばかすが汗ばんでいる
目のまわりにういてきていた。少年は、それ
が女の子の泣き出す前の表情であることを知
っていた。少年には、女の子の大きな黒い目
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から、今にもぽたぽたと涙がこぼれ落ちそう
に思えたが、女の子はうれしそうに、にっこ
り笑ってみせて、「ぼん、はよ、行こ。」と
言った。
 少年は、そうすれば女の子が歩きやすくな
るなどということは考えてもみずに、女の子
の右肩へ自分の左肩をよせていって、女の∵
子のからだの重みを自分で支えた。もう少年
は尾根まで登ることはあきらめていた。だが
、ついそこまで登れば、目の下に、港の黒い
亙(かわら)屋根の並んだ町並や、いっぱい
に汽船がうずまった港が見おろされるところ
があることを思い出していた。せめて、そこ
まで、少年は、女の子を連れて行きたかった
のだ。
 少年が、やっと女の子をその山肌まで連れ
て行くと、女の子は、「わっ。」とさけんで
、日だまりへとびだして行った。女の子はす
ぐころんで、メリンスの着物には芝草がまみ
れたが、そんなことはどうでもいいように、
女の子は、「うち、こんなとこに来たん、は
じめてや。」とさけぶように少年に言った。
女の子のからだいっぱいに春の日ざしがこぼ
れていた。

(田宮虎彦『小さな赤い花』)