ミズキ の山 7 月 3 週 (5)
★人間は他の人間と(感)   池新  
 【1】人間は他の人間と自由にまじわることができる。あるいは、まじわる相手を自由にえらぶことができる。学校の友だち、職場での友人、恋人、そして夫婦でさえも、それぞれの当事者の自由な選択によって成立している人間関係だ。
 【2】相手方に誰をえらぶかは、ある意味では自由であり、べつな見方からすれば偶然である。ふとめぐりあい知り合った人びと――その人びととわたしたちはつきあって生きている。【3】仲よくなれば一生をつらぬいた、親しい友人関係をとりむすぶこともできようし、けんかをして、それでお互いふたたび顔をあわせない、といったようなことになるかもしれぬ。
 【4】とりわけ、現代のように、都市化がすすみ、偶然性の高い社会では、人間関係は、ふと結ばれ、そしてふと消えてゆく一時的なものであることが多い。学校の友人にしても、それは卒業後数年間で、いつのまにかごぶさたになってしまう。【5】すくなくとも、そのような人間関係では「ごぶさた」がゆるされるのである。
 しかし、そのように自由な人間関係のなかで、ひとつの例外がある。それは、血縁の関係、とりわけ親子の関係である。【6】友人だの隣人だの夫婦だのは、「えらぶ」ことができるが、親子関係だけは、「えらぶ」ものではない。人が生まれた瞬間に、親子の関係は宿命的にあたえられてしまっている。こればかりは、誰にも、どうにもならない。
 【7】そのうえ、人間という動物は養育期間がながい。「親はなくても子は育つ」というのも真実だけれども、親がわりになるおとながいなければ人間の乳幼児は死んでしまう。そして、ふつうのばあい、子を育てるのは親である。【8】親子というのは、人間にとって、のっぴきならない関係なのだ。自由にみちあふれた現代の人間関係のなかで、親子だけはまったく別枠の関係なのである。そこでは人間関係一般についてのさまざまな原則はあてはまらない。【9】どんな社会、どんな時代にも、こうした特殊関係としての親子関係は生きつづけ、そのことによって、人類の歴史はつづりあわされてきた。そして、ついこのあいだまで、そういう親子関係は、ごく自然なものとして誰もがうけいれていた。∵
 【0】しかし、現代のひとつの特徴は、親子という関係が「問題」化してきた、ということであろう。むかしのように、親子は自然なスムーズな関係ではなくなってきたのだ。新聞の身の上相談などをみても、親子「問題」がぐんとふえてきた。いわく、どうやって子どもを育てたらいいのでしょう。いわく、親がわたしを理解してくれません、どうしたらいいのでしょう。……親子のあいだには、あきらかに、深い溝がうまれてきている。
 なぜ親子が「問題」化してきたのか。いくつもの理由をあげることができる。
 まず第一に、変化する社会のなかで親と子の経験がまったく異質化してしまったという事実に注目したい。かつて、社会が「伝統」社会であったとき、親と子は、おなじ経験を共有していた。子を育てながら、親は、じぶんが子どもだったころのことを回想することができたし、その子どもをこれからどんなふうに育てていったらいいか、についても確信をもつことができた。
 『どんなふうに育てていったらいいか』といった疑問は、伝統社会の親からみれば想像を絶している。子どもの育てかた――それはきわめて簡単だ。じぶんが育てられたのとおなじように育てればよい。それだけのことなのだ。じぶんの子どもは、将来、じぶんとおなじようになるだろう、と親は考え、また、子どもは、親とおなじような人間になりたい、と考えた。いわば、そこでは、子は親の「複製品」だったのである。
 ところが、現代社会での様子はだいぶちがう。おむつのあて方、授乳の仕方までが、ひと時代まえとすっかりかわってしまった。親は、じぶんが子どもだったときの経験を思い出してそれによって子どもを育てるのではなく、育児書をひもといて子どもを育てる。乳児経験の段階から、親子のあいだには、大きな落差がつくられているのだ。
 社会が進歩し、変化するかぎり、この落差は避けられない。子どもは親とちがった存在になる。そして、この落差から、さまざまな問題が派生してゆく。完全な保護者・教育者としての親と、完全な被保護者・生徒としての子、という安定した関係はグラつき、親子のあいだには一種の緊張関係がうまれてゆく。