長文集  6月3週  ★わたしはかねてから(感)  ma2-06-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】わたしはかねてから昔の日本に形見
分けという風俗のあったことを、ゆかしいこ
とと思ってきた。死者の遺言で、あるいは跡
取りの裁量で、死者の所有物をその思い出に
生者に分かち与える。大抵は死者の日常使用
していた道具や品物、着物などだが、もらっ
た者はそれを大事にしながら死者の記憶を新
たにする。【2】むろんそこに人間喜劇はあ
り、
 
 形見分け初めて嫁の欲が知れ

 泣きながら眼を見張る形見分け

 といった面白い光景も見られるわけだが、
ともかく遺贈してまた使うことのできる物が
ここにはあったのである。【3】着物はほど
いて洗い張りし仕立て直せば、自分の身丈に
あったものとして生き返る。硯のいいものな
ら世代から世代へ何百年でも伝承されうる。
欅の長火鉢、頑丈な茶ダンス、桐のタンス、
桑の針箱、文箱、小物入れといったものに、
江戸人は買うとき「一生物」というつもりで
思い切って金をかけた。【4】その代わりそ
れらの物は生涯の伴侶として大事に使いこま
れて、物としての値打ちを増したのである。
 わたしはそういう永続する物に囲まれてい
た彼らの生活を想像する。気に入ったいい品
物というのは物であって物ではない。生活に
欠くべからざる伴侶である。【5】それなし
には生活の充足が得られないものだ。
 だから大事に使いこみ、拭き、磨き、そう
やって人間の使用のあとをのこすことで物と
しての価値が上がる。茶碗などの陶磁器だっ
て博物館などのガラス戸の中に置かれていて
は死ぬのである。【6】大事に使うから輝き
を増し、また使えば使うほどよくなるそうい
う品物だけをもつことを、彼らはよしとした
のだ。
 それにくらべると現代のわれわれは物こそ
彼らと比較にならぬくらいもっているが、は
たしてそういう意味での生涯の伴侶となった
物をいくつもっているだろう。【7】回りを
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見渡せば、われわれのも∵っている物の多く
は、買った日が最高であとは一日使えば使う
ごとに価値の減ってゆくものばかりである。
クルマ、電気製品、合板材の家具、ガス器具
、いやその家屋そのものが商品としてせいぜ
い二、三十年しかもたぬ代物だ。【8】昔の
ように三代四代もの用に耐える、住めば住む
ほど味の出てくる家づくりではないのであ 
る。
 すべてがこれまた実にイヤな言葉だが耐久
消費財などと呼ばれるもので、五、六年から
せいぜい十数年の使用を前提にした製品、所
有し使用し廃棄し、また購入するサイクルに
組みこまれた商品ばかりだ。【9】永続する
ものなど一つもない。何年かすれば大型ゴミ
捨て日に出す以外ないもので、むろんこんな
もののどれ一つとっても恥ずかしくてとうて
い形見分けになど出せやしない。走行五万キ
ロの車などだれがもらってくれるものか。【
0】
 と、そういう目で見ると現代のわれわれの
生活は一見いかにもゆたかげで便利に快適に
できているが、よく見れば永続しない一時性
の品物の上に成立していることがわかる。現
代の生活が目の安らぎと落ち着きを欠いた、
仮のもの、一時しのぎのものといった感触か
ら逃れられないのは、一つにはわれわれがそ
ういう性格の物たちに囲まれているためとい
うことがあるに違いない。長もちしない、数
年すれば必ず消えてゆく物たちを相手に、本
当の物と人間の付き合いの生じるわけがなく
、物への親しみも生じず、生活に本物の落ち
着きのできるわけはないのだから。
 その点から見れば昔の人は、生活は今のよ
うに便利でも快適でもなかったかもしれない
が、はるかに気もちの上ではゆったりとし、
暮らしをいとおしんでいただろうという気が
する。そしてそういう単純だが充実した生活
のほうが、たえず物の誘惑に刺激され物への
欲望のやむときのない現代生活よりずっと上
等な生活のように、わたしには思われるので
ある。
 ヨーロッパにも遺産贈与の風俗があった。
死んだらもち物を自分の愛していた者たちに
遺贈する。アンピール様式の寝台だの、曲線
を組み合わせたロココ様式の椅子、頑丈な戸
棚や机などは、古くなれば古くなるほど価値
の増す芸術品のようなものだから、贈られる
のは一財産もらったと同じであり、また次の
一代、大事に使うことになるだろう。それは
またその物を通して個人の生活をひきつぎ、
その人をしのぶよすがにもなる。
(出典『日本の美徳』中野孝次)