マキ2 の山 6 月 2 週 (5)
★ある時、荘子が(感)   池新  
 【1】ある時、荘子(そうし)が恵子(けいし)といっしょに川のほとりを散歩していた。恵子(けいし)はものしりで、議論が好きな人だった。二人が橋の上に来かかった時に、荘子(そうし)が言った。「魚が水面にでて、ゆうゆうとおよいでいる。あれが魚の楽しみというものだ。」
 【2】すると恵子(けいし)は、たちまち反論した。「君は魚じゃない。魚の楽しみがわかるはずないじゃないか。」
 荘子(そうし)が言うには、「君は僕じゃない。僕に魚の楽しみがわからないということがどうしてわかるのか。」
 【3】恵子(けいし)はここぞと言った。「僕は君でない。だから、もちろん君のことはわからない。君は魚でない。だから君には魚の楽しみがわからない。どうだ、僕の論法は完全無欠だろう。」
 そこで荘子(そうし)が答えた。【4】「ひとつ、議論の根元にたちもどってみようじゃないか。君が僕に『君にどうして魚の楽しみがわかるか』ときいた時には、すでに君は僕に魚の楽しみがわかるかどうかを知っていた。僕は橋の上で魚の楽しみがわかったのだ。」
 【5】この話は禅問答に似ているが、実は大分ちがっている。禅は、いつも科学のとどかぬところへ話をもってゆくが、荘子(そうし)と恵子(けいし)の問答は、科学の合理性と実証性に、かかわりをもっているという見方もできる。【6】恵子(けいし)の論法の方が荘子(そうし)よりはるかに理路整然としているように見える。また、魚の楽しみというような、はっきり定義もできず、実証も不可能なものを認めないという方が、科学の伝統的な立場に近いように思われる。【7】しかし、私自身は科学者の一人であるにもかかわらず、荘子(そうし)の言わんとするところの方に、より強く同感したくなるのである。
 大ざっぱにいって、科学者のものの考え方は、次の両極端の間のどこかにある。【8】一方の極端は「実証されていない物事は一切、信じない。」という考え方であり、他の極端は「存在しないことが実証されていないもの、起こり得ないことが証明されていないことは、どれも排除しない。」という考え方である。
 【9】もしも、科学者の全部が、この両極端のどちらかに固執していたとするならば、今日の科学はあり得なかったであろう。デモク∵リトスの昔はおろか、十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった。【0】それにもかかわらず、原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到着し得たのである。「実証されていない物事は一切、信じない」という考え方が窮屈すぎることは、科学の歴史に照らせば、明々白々なのである。さればといって、実証的あるいは論理的に完全に否定し得ない事物は、とれも排除しないという立場が、あまりにも寛容すぎることも明らかである。科学者は思考や実験の過程においてきびしい選択をしなければならない。いいかえれば、意識的・無意識的に、あらゆる可能性の中の大多数を排除するか、あるいは少なくとも一時、忘れなければならない。
(中略)
 今日の物理学者にとって最もわからないのは、素粒子なるものの正体である。とにかく、それが原子よりも、はるかに微小なものであることは確かだが、細かく見れば、やはり、それ自身としての構造がありそうに思われる。しかし実験によって、そういう細かいところを直接、見わけるのは不可能に近い。ひとつの素粒子をよく見ようとすれば、他の素粒子を、うんとそばまで近づけた時に、どういう反応を示すかを調べなければならない。ところが、実験的につかめるのは、反応の現場ではなく、ふたつの素粒子が近づく前と後だけである。
 こういう事情のもとでは、物理学者の考え方は、上述の両極端のどちらかに偏りやすい。ある人たちは、ふたつの素粒子が遠くはなれている状態だけを問題にすべきだという考え方、あるいは個々の素粒子の細かい構造など考えてみたってしようがないという態度を取る。私などは、これとは反対に、素粒子の構造は何らかの仕方で合理的に把握できるだろうと信じて、ああでもない、こうでもないと思い悩んでいる。荘子(そうし)が魚の楽しみを知ったようには簡単にいかないが、いつかは素粒子の心を知ったといえる日がくるだろうと思っている。
(湯川秀樹『物質と思考』より)