1. 【1】昔の人の脳と、いまの人の脳は、どう
違うか。
2. 昔の人の骨と、いまの人の骨、これはどう
違うか。私が現物について、いくらか知っているのは、骨のことでしかない。その骨から考えるなら、四、五万年前このかたの人類は、根本的にはいまの人と同じ骨をしている。【2】だから、
その頃から現代まで、人は同じような脳をしていたに
違いない。そういう結論になる。
3. それ以前の人は、どうか。それなら、人類学でいう旧人、すなわちネアンデルタール人のことになる。これはもう、いまの人とは、骨がはっきり
違っている。【3】実際に旧人は、われわれとは、脳がかなり
違っていたのではないか。私はそう疑っている。
4. では、旧人と、いまのわれわれ、すなわち新人は、どこが
違うか。最大の
違いは、新人におけるシンボル体系の存在と、その豊富さであろう。【4】要するに、お金とかお守りとか、
賭け事とかバクチとか、科学とか宗教とか、芸術とか演劇とか、それ自体は実用に役に立たず、約束事で成立するもの、そういうものが、旧人にはあまりなかったと思われる。
5. 【5】われわれが常識としているような種類の言語、これも旧人では欠けていたか、不十分だった可能性が高い。そう私は考えている。ことばは、シンボル体系の典型だからである。
6. 見てきたわけでもないのに、そんなことが、なぜわかるか。【6】それは、それに関する遺物が、旧人の
遺跡からは出てこないからである。クロマニョン人、すなわち新人になると、
突然、
洞窟の
壁画が出てきたりする。あんな見事な絵は、私にはとうてい
描けない。あるいはお守りらしい、わけのわからぬ細工ものが出る。【7】それが旧人だと、石で作った
刃物の類ばかり。これは実用性が高い。道具を見るかぎり、ある程度以上古い時代の人たちは、たいへん実用的だったということになる。
7. それでは面白くない。昔の人には、いまの人にない
超能力でもなかったのか。【8】それは、さまざまなマンガに
描かれているから、そういうものを見てくださればいい。いまの人が
超なんとかを好むのは、いつも思うのだが、自然への感受性を失ったからであろう。自然を見ていれば、それ自体がほとんど
超能力に見える。【9】∵よく考えてみれば、不思議なことばかりなのである。もしその具体例を、自分の経験から思いつけないとすれば、あなたはすでに自然への感覚をほとんど失っている。自然がもはや不思議とは思えなくなっているからである。【0】
8. さてそれが、同じ新人のなかでの昔の人といまの人、そのいちばん大きな
違いであろう。自然の実在と、自然の不在。いまの人はおおかた人工
環境に住む。これはなんでもないようだが、人間の思考をすっかり変えてしまうはずである。そこには自然がない。あるのは、人の作ったものばかり。まわりがすべてそれなら、人はそれだけを考えるようになる。それしか、ない。
9. そうなると、脳はどうなるか。わが世の春であろう。人工
環境とは、脳が作ったものだからである。脳は脳のなかに住む。それ以外のものは、
邪魔だ。こうして、われわれ現代人の持つ脳は、脳のなかに置かれた脳、それだけになった。
10. じつはそれは、脳だけではない。同じ新人でも、古い骨を見ると、ずいぶんと
使い込んであることがわかる。たとえば
噛むことに関係する部分は、昔の人では、たいへんよく発達している。それに比べて、現代人はほとんど「
家畜」といってもいいであろう。固いものなど、子どもの
頃から
噛まない。
11. 現代人は、水や食物を探しに行く必要はない。ただ冷蔵庫をのぞけばいい。したがって、そういうものの、自然の「ありか」に対する感覚はない。気温は調節されてしまう。だから身体が調節する必要はない。そうした生活でできあがるのが、われわれの脳である。それはきまりきった生活に慣れた、
家畜の脳であろう。
12. 人は多くの動物を
家畜化した。次はもちろん人間の番である。私は頭骨を二つ、机の上にいつも置いている。一つは
野蛮人のもので、もう一つは、
家畜人のものである。長いあいだ置いておくと、どうしても
野蛮人の骨のほうが、骨として見事だという気がしてくる。だから、私が
贔屓するのは、
野蛮な脳である。私の感覚が、おそらく
野蛮なのであろう。
13. (養老
孟司『脳のシワ』)