長文集  5月4週  ○昔の人の脳と、いまの人の脳は  ma2-05-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/18 11:58:48
 【1】昔の人の脳と、いまの人の脳は、ど
う違うか。
 昔の人の骨と、いまの人の骨、これはどう
違うか。私が現物について、いくらか知って
いるのは、骨のことでしかない。その骨から
考えるなら、四、五万年前このかたの人類は
、根本的にはいまの人と同じ骨をしている。
【2】だから、その頃から現代まで、人は同
じような脳をしていたに違いない。そういう
結論になる。
 それ以前の人は、どうか。それなら、人類
学でいう旧人、すなわちネアンデルタール人
のことになる。これはもう、いまの人とは、
骨がはっきり違っている。【3】実際に旧人
は、われわれとは、脳がかなり違っていたの
ではないか。私はそう疑っている。
 では、旧人と、いまのわれわれ、すなわち
新人は、どこが違う か。最大の違いは、新
人におけるシンボル体系の存在と、その豊富
さであろう。【4】要するに、お金とかお守
りとか、賭け事とかバクチとか、科学とか宗
教とか、芸術とか演劇とか、それ自体は実用
に役に立たず、約束事で成立するもの、そう
いうものが、旧人にはあまりなかったと思わ
れる。
 【5】われわれが常識としているような種
類の言語、これも旧人では欠けていたか、不
十分だった可能性が高い。そう私は考えてい
る。ことばは、シンボル体系の典型だからで
ある。
 見てきたわけでもないのに、そんなことが
、なぜわかるか。【6】それは、それに関す
る遺物が、旧人の遺跡からは出てこないから
である。クロマニョン人、すなわち新人にな
ると、突然、洞窟の壁画が出てきたりする。
あんな見事な絵は、私にはとうてい描けな 
い。あるいはお守りらしい、わけのわからぬ
細工ものが出る。【7】それが旧人だと、石
で作った刃物の類ばかり。これは実用性が高
い。道具を見るかぎり、ある程度以上古い時
代の人たちは、たいへん実用的だったという
ことになる。
 それでは面白くない。昔の人には、いまの
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人にない超能力でもなかったのか。【8】そ
れは、さまざまなマンガに描かれているか 
ら、そういうものを見てくださればいい。い
まの人が超なんとかを好むのは、いつも思う
のだが、自然への感受性を失ったからであろ
う。自然を見ていれば、それ自体がほとんど
超能力に見える。∵【9】よく考えてみれば
、不思議なことばかりなのである。もしその
具体例を、自分の経験から思いつけないとす
れば、あなたはすでに自然への感覚をほとん
ど失っている。自然がもはや不思議とは思え
なくなっているからである。【0】
 さてそれが、同じ新人のなかでの昔の人と
いまの人、そのいちばん大きな違いであろう
。自然の実在と、自然の不在。いまの人はお
おかた人工環境に住む。これはなんでもない
ようだが、人間の思考をすっかり変えてしま
うはずである。そこには自然がない。あるの
は、人の作ったものばかり。まわりがすべて
それなら、人はそれだけを考えるようになる
。それしか、ない。
 そうなると、脳はどうなるか。わが世の春
であろう。人工環境とは、脳が作ったものだ
からである。脳は脳のなかに住む。それ以外
のものは、邪魔だ。こうして、われわれ現代
人の持つ脳は、脳のなかに置かれた脳、それ
だけになった。
 じつはそれは、脳だけではない。同じ新人
でも、古い骨を見る と、ずいぶんと使い込
んであることがわかる。たとえば噛むことに
関係する部分は、昔の人では、たいへんよく
発達している。それに比べて、現代人はほと
んど「家畜」といってもいいであろう。固い
ものなど、子どもの頃から噛まない。
 現代人は、水や食物を探しに行く必要はな
い。ただ冷蔵庫をのぞけばいい。したがって
、そういうものの、自然の「ありか」に対す
る感覚はない。気温は調節されてしまう。だ
から身体が調節する必要はない。そうした生
活でできあがるのが、われわれの脳である。
それはきまりきった生活に慣れた、家畜の脳
であろう。
 人は多くの動物を家畜化した。次はもちろ
ん人間の番である。私は頭骨を二つ、机の上
にいつも置いている。一つは野蛮人のもの 
で、もう一つは、家畜人のものである。長い
あいだ置いておくと、どうしても野蛮人の骨
のほうが、骨として見事だという気がしてく
る。だから、私が贔屓するのは、野蛮な脳で
ある。私の感覚が、おそらく野蛮なのであろ
う。

 (養老孟司『脳のシワ』)