長文集  4月4週  ○じつは私は二〇代前半まで  ma2-04-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/18 11:57:39
 【1】じつは私は二〇代前半まで、旅行好
きというには程遠かった。身体を動かすこと
は大嫌いで、部屋にこもって音楽を聴いたり
本を読んだりするのを好む人間だった。旅ら
しいことといえば、東京から大分までの帰省
を毎年三回ほどするくらいだった。
 【2】ところが、大学院でフランス文学を
勉強しはじめたころから、フランスに行った
ことがないのでは話にならないという気にな
りはじめた。そこで、奨学金を貯め、親にも
援助してもらって、一九七七年の三月、初め
てフランスを訪れた。【3】まだ成田空港は
開港しておらず、パリもまだオルリー空港を
使っていたころだ。格安料金の大韓航空機を
利用して、ソウル、アンカレジ周りで二四時
間以上かけてパリに行った。ついでに、ドイ
ツ、オーストリア、イタリアにも足を伸ばす
ことにした。
 【4】そして、ヨーロッパでしばらく過ご
すうち、フランスという国に関心を持つとい
う以上に、旅行そのものに目覚めてしまった
のだ。
 旅行の最大の楽しみ、それは「驚き」と「
うろたえ」だ。
 外国の観光地を見る。生活を見る。そこで
行動して、人間に触れる。【5】これまでと
違った価値観に遭遇する。日本にいて予想し
ていたのとまったく違う光景、まったく違う
反応に出会う。そし て、驚き、うろたえる

 日本人としては、それでもなお日本式の生
活をしようとすることもある。だが、そうす
ればするほど、困った事態に陥る。【6】だ
が、それがまた楽しい。それまで絶対的に真
実と思っていたことが揺らぎ、これまでの価
値観が揺り動かされる。
 最初の旅行でまず驚いたのは、道を歩くの
は、きれいに着飾った白人のパリジャンやパ
リジェンヌばかりではないということだっ 
た。【7】そもそもパリは白人だけの都市で
はなかった。私はモンパルナスの一つ星の安
ホテルを基点にしてパリ見物をはじめたが、
歩く場所によっては、目に入る人間の一〇〇
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パーセントが有色人種だということも珍しく
なかった。【8】地下鉄に乗っても、有色人
種のほうが多いということがしばしばあった
。しかも着飾っている人は少ない。ジーンズ
に革ジャン姿が圧倒的に多い。日本で予想し
ていたような上品な白人はめったに見かけな
い。∵
 数日後、フォブール・サントノレを歩いた
。【9】日本でいえば銀座のようなところだ
。そこで初めて頭の中で想像していたパリの
光景に出会えた。エレガントなパリジェンヌ
がいた。
 そこで気がついた。貧乏学生である私がほ
っつき歩いていたの は、貧しい地域だった
のだ。【0】そこには、貧しい白人や有色人
種が多かった。フランスは階層社会だったと
いうわけだ。しかも、すでにフランスにはア
ラブ系、アフリカ系の移住者が押し寄せ、そ
の人たちが新たな下層社会を作り上げていた
。(中略)
 最初のヨーロッパ旅行で、私はこのような
光景を見るうち、旅というものの楽しさを知
ったのだ。そして、それが病みつきになり、
その後、時間とお金に少し余裕ができてから
は毎年のように海外旅行に出かけた。
(中略)
 ときには異文化のなかにかつての日本と同
じような光景を見かけて、人間の普遍性を痛
感することもある。日本とまったく文化の異
なるフランスでも、日本人と同じような反応
にしばしば出会った。一九九四年には友人と
ラオスに行って、メコン川の川原で凧揚げを
して遊ぶ子供たちを見て、四〇年前、九州の
片田舎の川原で遊んだ自分の姿が重なった。
 私は、旅行での様々な驚きやうろたえや失
敗の経験を書き綴ってきた。
 もちろん、この程度の旅で大旅行家などと
はいえない。私はたかだか三〇ヵ国を旅行し
たに過ぎない。私よりもたくさんの旅行を 
し、たくさんの経験をした人は多いだろう。
 だが、私は幸い、ほかの人よりも自由な仕
事についていたため、勝手気ままにあちこち
を動き回ることができた。冷戦時代の東欧六
ヵ国を含む六〇日間の新婚旅行、朝鮮民主主
義人民共和国(北朝 鮮)旅行、カンボジア
旅行などにも出かけることができた。しか 
も、好奇心旺盛で、なおかつおっちょこちょ
いときているので、あちこちで少々危険な目
にあった。そして、そのおかげで、自分の目
でその時代その時代の社会を見て、様々な経
験をし、驚き、うろたえることができた。今
となっては、これは私の財産といえるもの 
だ。
 (樋口裕一(ゆういち)『旅のハプニング
から思考力をつける!』)