a 長文 10.1週 hu2
 わたしには一つ、自分の好奇こうき心を呼び覚ますよ さ  発見があった。お茶室というものが時代を経る中で、広い書院からだんだん小さく縮んちぢ でいって、最後は一つぼだけの空間に至るいた という、その縮小しゅくしょうの流れを見つけてハッとしたのだ。このお茶室の面積が縮小しゅくしょうしていく流れが、ある不思議な引力をもって見えたのである。
 前から気になっていたことだが、懐石かいせき料理というものは、何故大きな器にホンの少々の食品を載せるの  のだろうか。
 同様に、生花というものもおうおうにして、大きな器にホンの一輪の花をすっと斜めなな に生けたりする。そんなことが何故か気にかかっていた。
 懐石かいせき料理がほんの一口の分量を大きな器に入れてあること、それを経済けいざい要素から見れば貧乏性びんぼうしょうである。大きな花器に花一輪も同じことだと思う。ヨーロッパでは花はたくさんあるほど美しく、それが豊かさの表現となっている。それに対して一輪の花で満足しようというのだから、これは貧乏性びんぼうしょうの美学というより、むしろ貧しさの美学、といった方がいいのかもしれない。しかしお茶室の縮小しゅくしょうしていく流れには、ただ経済けいざいからの解釈かいしゃくによる貧乏性びんぼうしょうとは違うちが 別の引力があるのではないか、という印象があるのだった。
 懐石かいせき料理というものは、利休たちの茶の湯の世界が究められていく過程で生れたものだ。つまりお茶を飲むために、その事前運動として料理を食べる。
 わたしたちがいまふつうに飲む煎茶せんちゃにしても、まず食事をすませたその後に、ゆっくりと飲むものである。まして茶の湯でいうお茶とは抹茶まっちゃである。お茶の葉を摺っす て粉にしたものを、そのままお湯に溶かしと  て飲むのだから、ずいぶん濃いこ 。それでも薄茶うすちゃ濃茶こいちゃとあって、お濃茶こいちゃというのはほとんどドロドロである。カフェインであるから、空っ腹すきっぱらには相当こたえる。何か食べたあとの満たされたお腹 なかでなければ受けとめられない。そこでお茶の前には必ずお茶受けのお菓子 かしが出るわけで、そのお茶受けをさらに強化したものとして懐石かいせき料理があらわれてくる。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 つまり食欲しょくよくを満たすための食事ではなく、あくまでお茶に至るいた ための食事であるから、分量的には最低限のものでいいわけである。しかしそうやって生れた極小の懐石かいせき料理が、お茶という最終目標を失ったところでもなお美しい料理として崇めあが られていく。そういう美意識がこの国にはあるのだった。
 その極小を愛でる美意識が、貧乏性びんぼうしょうと重なってあるのである。そもそもディテールへの愛というものが、基礎きそ的な感性としてあるのだ。
 たとえば大和心のシンボルともいわれるサクラというもの、漢字ではこれをさくらと書く。という字には、まとう、めぐらす、とりまくという意味があるという。中国ではサクラの花がぐるりと木をとりまいて咲くさ 全体像を見てさくらという文字が出来ているのだ。
 それでは漢字が伝わってくる前、サクラという和音による呼び名よ なにはどのような意味があるのか。日本語の古訓でサクの音のものはわり、その他、いずれも「二つに分かれる」という意味を持っているという。
 おそらく桜を見てサクラと発音していた古代の日本人たちは、桜の花びらを見つめていたのであろう。ご存知 ぞんじのように桜の花びらの先端せんたんには小さな切れ込みき こ があり、M字形となっている。花びらの先が二つに分かれる。つまり大陸の人々は茫洋ぼうようとピンクの固まりに包まれた桜の木の総体を見ていた。そして列島日本人は、散った桜の花びらの一つをてのひら載せの て、その先端せんたん部分に見入っていたのである。
 そもそも日本人の崇めるあが  神さまたちは、自然の風物のや、石や、動物の一つ一つに宿っているわけで、自然のディテールを愛でる感性はこの列島の条件として備わっていたものなのだろう。
 おそらくそのような感性は、この国の人々に、自然に、無自覚的にあったのだと思う。

赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』〈岩波新書〉)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 10.2週 hu2
 自分のよさを見つけていくというのは、案外に、他人のよさを見つけていくことよりも、難しいむずか  。だれでも、多少はうぬぼれはあるものだが、自分のよさを見つけていくのは、それとまた別だ。
 たいていは、よいところといやなところは、重なりあっているものだが、他人については、そのよさが目だってうらやましく、自分のほうでは、いやな部分が目について、それを他人にかくしたくなる。
 なにごとにも、よいことと悪いこととが重なっていると言っても、それを恐れおそ て、なにもしないのは、もっと悪い。自分に、よさと悪さが重なっていても、それを人に見せまいと思ってかくしているのは、もっと悪い。
 中学生あたりでは、自分にはイヤな性格があると思いこみ、それを他人に見せまいとイイコぶるのに疲れはてつか   ていることが、よくある。イヤなところを見せては、他人にきらわれるのではないかと、それがこわくて内にひきこもっていることもある。実際はたいてい、イヤなところを見せるより、イヤなところを見せまいと引きこもってるほうが、よほど他人にきらわれる。
 それに、そのイヤなことというのは、自分が思うほどには、他人にいやがられるものではない。かりに、本当に他人にきらわれるとしても、そこをさらけだして、あの人はいやな人だ、しかし、おもしろい人だ、とまでならなくては、一生イジイジし続けねばならない。そして、なんのイヤミもないと他人に好かれる、というのは、あまりないし、あってもたよりない感じで、イヤなところがあるが気に入った、といった目で見られるようになるほうが、ずっと味のある人柄ひとがらになる。
 だれにも悪口を言われないようにしている人というのは、そのこと自体で、みんなからよく思われない。他人を意識しはじめた中学生のころに、他人の悪口が特別に気になるのは仕方がないにしても、悪口を言われないようにしようという、その態度自身が他人の悪口の材料になりやすい、という事実には早く気づいたほうがよい。
 少し楽観的なのかもしれないが、人間というものは、本来はそれぞれの性格を持ち、それぞれの才能や容姿ようしを持ち、それはいいところと悪いところが重なりあって、他人から見れば好かれたりきらわれたりしながらも、それがそのまま生きていれば、たいへんおもしろいものだ、とぼくは考えている。人間がその人らしく生きているさまというのは、すべておもしろい。
 自分は、自分のようにしか生きられない。そして、本当にそのよ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

うに生きているのは、おもしろい。他人よりもまず、自分が自分をよく見ることができれば、自分にとっておもしろい。そして、これがぼくの一番楽観的なところかもしれないが、本当に自分を楽しんでおもしろく生きている人は、他人が見てもおもしろい。そして、他人だって、おもしろいからには、きみを好ましく思ってくれるはずだ。
 才能や容姿ようしだって、自分自身を出したほうが、ずっとよい。たとえば、アメリカの黒人は、昔は白人のようになろうと、はだを白くしようとしたり、髪の毛かみ けをまっすぐしようとしていたが、それは少しも美しくなかった。黒人が美しくなりだしたのは、ブラック・イズ・ビューティフルと、自分自身を出しはじめてからである。そしていまでは、テレビのコマーシャルでも、黒人が魅力みりょく的な姿すがたを見せている。自分を出しているものは、美しいのだ。
 いろんな才能だって、その人にしかない味が出せるのが最高だろう。日本の昔の芸人などで、芸が好きでその道に入ったものの、不器用で才能がないと言われ続け、それでも芸から離れはな られずにいるうちに、ふと気づいてみると、他のだれとも違っちが た味を持った名人と言われるようになっていた、なんて話がある。それをべつに、努力精進のかいあって、なんて芸道物語にする必要もあるまい。その人の味が、その人の芸と一体化してきたとき、不器用で才能がないように見えても、みんなが感心するような芸人になってしまっていたのだ。
 もちろん、若いわか 間は、普通ふつうの意味で才能があったり、普通ふつうの意味で容姿ようしがととのっていたり、普通ふつうの意味で性格がよかったりしたほうが、楽に世がわたれる。しかし、一生がそうというわけでもない。
 それに、かりにいま、そうした点で本当に他人から低く見られているとしても、その自分を出して、自分にしかないタイプで進んだほうが、自分の才能はよりよく開花する。自分自身の容姿ようしの特性を生かしてくらしたほうが、より美しくなれる。自分の性格をかくすことなく他人とつきあったほうが、他人がきみをもっと認めみと てくれるようになる。

(森 つよし「まちがったっていいじゃないか」より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 10.3週 hu2
 一九八〇年代に入ると、日本では「国際化」の必要性が非常に大きく叫ばさけ れるようになりました。一九九〇年代から新世紀にかけては「グローバリゼーション」とのかけ声がどこでも聞こえます。
 国際化が、どちらかと言えば日本なら日本一国の変化を指し、それが他の国々も互いにたが  国際化をしなくてはならないといった傾向けいこうが強かったのに対し、グローバリゼーションは、地球全域ぜんいきでの変化に重きを置いた言葉です。国際化はやはり国と国といった関係が中心の考え方というべきでしょう。グローバリゼーションには国というわくにとらわれない見方が含まふく れています。実際、インターネットや衛星放送が世界中で見られることを含めふく て情報化が進行し、経済けいざいがボーダーレスになり(企業きぎょう活動の場が全地球的になること)、中国やロシアが積極的に市場経済けいざいの仲間入りをするという現象からも、グローバリゼーションが加速していることは事実だと思います。
 そこでグローバリゼーションとは何か、とその内実を考えてみると、少なくともその変化を表面的に覆っおお ているのは、現代アメリカの作り出した大衆たいしゅう文化あるいは生活様式です。高層こうそうビルもハンバーガーも、二〇世紀アメリカの経済けいざい力によってつくり出されたものであり、それが世界中に発信され、どの国の大都市にも波のように押し寄せお よ ているのだと思います。
 アメリカ大衆たいしゅう文化の表現形式は、特に二〇世紀後半の世界の国々には非常に受け入れやすいということがありました。いくらアメリカが政経軍事にわたるちょう大国といっても、また文化の産業化の力が強大といっても、その文化そのものに魅力みりょくがなければ世界に広まるわけはありません。ハリウッド映画えいがやポピュラーミュージック、コカ・コーラ     やハンバーガーなどの食文化を含めふく たライフスタイルなどが世界の多くの人に好まれるから広まるわけです。
 アメリカの消費経済けいざいとそこに広まる文化のグローバリゼーションの波には抵抗ていこうしがたいものがあります。かつてインドのムンバイ(旧ボンベイ)では、人民とうコカ・コーラ     追放運動なども起きました。しかし、いまではデリーにもファストフードの店がありま
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

す。フランスのように、アメリカ映画えいがの輸入本数を制限するなど、アメリカの「文化侵略しんりゃく」に対する防衛さくを講じる国もあります。しかしそういう抵抗ていこうも効果的ではありません。パリではハリウッド映画えいがからファストフード店まで人が群がっています。
 こうしたグローバリゼーションを政治権力けんりょくで禁じることは難しいむずか  でしょう。というのは、情報化の時代には、テレビやインターネットなどの通信伝達手段しゅだんによってどこに何があるのかだれでも知ってしまうからです。そして同じものをほしがったり同じことをしたくなるからです。そういう消費欲望よくぼうを起させるところがアメリカ的な文化のグローバリゼーションの強みなのです。
 ただ、この文化のグローバリゼーションによって、やがて世界の文化が均質化してしまうのかというと、それも違いちが ます。戦後憲法けんぽうや学校制度に始まり、アメリカ化の影響えいきょうを受け続けた日本ですが、アメリカから見るとまだ「日本異質いしつろん」が出てくるぐらい、彼我ひがの文化の違いちが 依然としていぜん   消えていないのです。確かに、食生活やファッション、経済けいざいや社会の制度まで、グローバリゼーションによって変わるものはたくさんあります。しかし同時に、文化的社会的に残るものは残っています。英語が情報通信の第一言語として世界を覆っおお ていることは事実としても、タイ語もネパール語ももちろん日本語もしっかりと存在そんざいしています。アメリカ的なファストフード支配の傾向けいこうはあっても、回転寿司すしもあり、和食の伝統は残っています。それが消え去るとも思えません。こういう事実を見ても、わたしは、それぞれの文化が全て画一化してしまうとは思いません。しかし、他方でそれも楽観的にすぎるかもしれないと感じたりもします。実はこうしたグローバル化の勢いは、人々に自文化への関心を薄めうす させ、子どもや若いわか 世代に伝統や歴史についての関心を弱くさせる働きがあるのも事実だと思うからです。
 本来は文化のグローバリゼーションと文化は必ずしも対立関係にはなく、グローバリゼーションも受け入れながら文化は文化として存在そんざいするというあり方になるのが一番良いのではないでしょ
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 10.3週 hu2のつづき
うか。

(青木保「文化理解」より)
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 10.4週 hu2
 では「美」とは何か、どういうものか、これは大学で学ぶ「美学」というものがあるほどの大テーマですから簡単かんたんには言えませんが、それが知りたくて読んだ岸田劉生りゅうせいの『美の本体』(講談社学術文庫)という、むかしよく読まれた本があります。その中で、「『美しい』と『きれい』とはちがうのだ」という一行だけが印象に残っています。その言葉のためにある本のようなものでした。「きれいなもの」もいいけれど、そのうち飽きあ てきます。いつまでも、あるいはいつ見ても心に響くひび ということは少ないでしょう。
 その本が文庫本になっていたので、最近読み直して、若いわか ときに、こんな難しいむずか  ものをよく読んだなと思いました。そして「絵描きえか は美の使徒である」という言葉に出会って少し苦笑しました。それは自分でそう言い聞かせて、自分を駆り立てか た ているのだと、好意的に読むことはできました。絵描きえか が「ぼくは美の使徒だ」と言うのは自由だけれど、他人が言うのでなければ信憑しんぴょう性がありません。
 今はどうか知りませんが、旧ソ連では、絵描きえか であることが尊ばたっと れたそうです。「あの人は芸術家だから」とか「あの人はバレリーナだから、配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。ニューヨークでも、アーチストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーチストと名のつく仕事についている人は優遇ゆうぐうされて安く住むところが用意されているのだそうです。
 日本では、優遇ゆうぐうどころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。国策こくさくとして科学的発見を願う時代に、「美」などは迂遠うえんなことのように思われ、直接コンピューターの教育を徹底てっていすれば足りる、と考えられているようですが、わたしにはそう思えません。科学的にも、芸術的にも「美しいものを創造そうぞうしよう」とする感性と執拗しつような努力が両輪となって、新しい境地を開くのです。努力は金のためであったとしても、その努力を続け得るのは、美しいものに魅せみ られる感性のた
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

めです。そんな意味で美術教育の時間が減らされたことは惜しまお  れます。
 「『美しい』と『きれい』とはちがう」……これは傾聴けいちょうすべきことばです。「きれい」というのは「汚いきたな 」の反対語ですが、「美しい」というのは醜悪しゅうあくな部分までも含んふく でいます。たとえば、グリューネヴァルトの作になる、コルマール(フランス)の教会の祭壇さいだん画に描かえが れたキリストは、目を覆うおお ほどのおできや腫れ物は もの覆わおお れています。また金子光晴の「大腐乱ふらん」という詩も、人間が死んで腐乱ふらんしていく、大自然の過程をたたえる詩として歌っています。このように一見したところは醜悪しゅうあくなものでも、心を打たれずにはおられません。満開の桜も美しいけれど、秋の枯れ葉か は褪せあ た色も美しい。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは(桜の花は、満開のものだけを、月は満月だけを見るべきものだろうか、いやそうではない。)」(兼好けんこう法師「徒然草」第一三七だん)というのはこのことです。
 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。自然や芸術作品に、人の心を動かすだけの力が無くてはかないませんが、それを見る人の感性のありかたというものがあろうと思います。「きれい」なものに心を動かされても悪くはありません。しかしさらに深く働きかけて、見る者が「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです。つまり「美」という厄介やっかいなものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。

 (安野光「絵のある人生―見る楽しみ、描くえが 喜び―」(岩波新書)より。)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 11.1週 hu2
 おとうさんとか、おかあさんとか、兄弟とか、仲のよい友だちとか、そういう近しい間柄あいだがらの人たちでさえ、時によると、わたしたちのしたこと、いったことをほんとうにわかってくれなかったり、まちがえて悪く思ったりすることがあります。そのためにおたがいの仲がまずくなるということも、よくある例です。
 こういう場合には、誤解ごかいわたしたちを不幸にします。誤解ごかいを受けたわたしたちばかりでなく、誤解ごかいしたおとうさんやおかあさんや友だちにだって、それは不幸なことです。だから、こういう場合には、おたがいの不幸をとりのぞくために、誤解ごかいを残しておかないようにつとめなければなりません。ほんとうのことをわかってもらうように、よく話をしなければいけないと思います。
 ところが、みなさんならば学校での大勢の友だち仲間、またおとなならば世間の人々など、そういう特に近しい間柄あいだがらでない人たちが、わたしたちについていろいろいったり考えたりしていることに対してはわたしたちは、たとえそれが耳にはいっても、いちいちいいわけをしないですませるようにならなければいけないのです。というのは、大勢の人を相手に、いちいちいいわけをしたらきりがないという理由からばかりではありません。いちいちいいわけをせずにはいられないという気持ちが、ついわたしたちに、もっともっと大切なもののあることを忘れわす させてしまうという、大きな危険きけんがあるからです。もともとわたしたちにとってかんじんなことは、自分という人間がほんとうにどんな人間かということ、自分のしたことがほんとうにまちがっていなかったかどうかということであって、他人がそれをどう見るかということではないでしょう。むろん、だれにしたって人からどう思われるかは気になることですが、あんまりそれを気にする人たちは、他人の目に自分がどううつるか、そればかりに心を使って、ほんとうの自分がどんな人間かということを、いつのまにかお留守にしてしまいがちです。みなさんがだんだんおとなになると、他人の目によく見られたい、えらそうに見られたい、親切らしく見られたい、金持ちらしく見られたい……などと、いろいろ自分でないものに見られようとして、そればかり気にしている人間がじつに多いことを知ってくるでしょう。もちろん、そんな人間にろくな人はないのですが、当人も世間もそれにだまされている場合が少なくないのです。しかし、考えて見れば、立派りっぱ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ハガネが多くの人からナマリだと思われても、それでハガネがナマリになってしまうわけではありません。また、ナマリがハガネだと思われたって、ナマリはどこまでもナマリではありませんか。ハガネをナマリだと思うのは、そうまちがえた者のはじです。また、ナマリがハガネだといわれても、むろん、ナマリの真の名誉めいよにはなりません。
(中略)
 リンカーンがアメリカの大統領になってからのことで南北戦争中のことですが、「戦争指導委員会」という委員会の人たちが、リンカーンのしたことについて、重大なあやまちがあるといってかれ攻撃こうげきしたことがありました。その時ある役人が、ちょうど問題になったことについて委員会のいいぶんをくつがえすだけの正式の証拠しょうこを持っていたので、ほんとうのようすを新聞に発表して弁明したいと思うが、いいでしょうかと、リンカーンにたずねました、すると、リンカーンはこう答えたというのです。
 「いや、いけない。少なくともいまのところはいけない。わたしに加えられているいっさいの攻撃こうげきにすべて目をとおしていたら、ましてそれにすべて答えたりしていたら、わたしのかんじんの仕事が休業になってしまう。わたしは自分の知っている最善さいぜんのことをやっているのだ。自分にできる最善さいぜんをつくしているのだ。そしてわたしはそれを最後までやりつづけてゆくつもりでいる。もしも、その最後になってわたしが正しかったとわかれば、いまわたしに加えられている非難ひなんなどは物の数でもなくなるだろう。また、もしもその最後になって、わたしがまちがっていたら、十人の天使がわたしを正しかったといってくれても、なんにもなりはしないからね。」

吉野よしの源三郎げんざぶろう「八つの小さな話」より)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 11.2週 hu2
 価値かちが変動し、混乱こんらんしていくなかで、健康な体というのは、ひとつのよりどころにはなるでしょうが、健康な体、たくましい体だけがあればいいのかといえば、そうではないことは当然です。
 前にC・W・ニコルさんから南極かどこかへ探検たんけんに行ったときの話を聞いたことがあるのですが、かれはこんなことを言っていました。
 南極などの極地では、長いあいだテントを張って、くる日もくる日も風と雪と氷のなかで、じっと我慢がまんして待たなければいけないときがある。そういうときに、どういうタイプの連中がいちばん辛抱しんぼうづよく、最後まで自分を見失わずに耐えた ぬけたか。ニコルさんに言わせると、それは必ずしも頑健がんけんな体をもった、いわゆる男らしい男といわれるタイプの人ではなかったそうです。
 たとえば、南極でテント生活をしていると、どうしても人間は無精になるし、そういうところでは体裁ていさいをかまう必要がないから、身だしなみなどということはほとんど考えなくてもいいわけです。にもかかわらず、なかには、きちんと朝起きると顔を洗っあら てひげをり、一応、服装ふくそうをととのえてかみもなでつけ、顔をあわせると「おはよう」とあいさつし、物を食べるときには「いただきます」と言う人もいる。こういう社会的なマナーを身につけた人が意外にしぶとく強く、厳しいきび  生活環境かんきょうのなかで最後まで弱音を吐かは なかった、というわけです。これはおもしろい話だと思います。
 礼儀れいぎ、身だしなみ、こういうことは極限状態のなかでは最後に考えることのような気がします。しかし実際には、そういうなかで顔をあわせたときにきちんと「おはよう」とあいさつのできるような人、「ありがとう」と言えるような人、あるいは朝、ほんのわずかな水で顔を洗いあら 、ひげもって、それなりに服装ふくそうをととのえ、そして他人と礼儀れいぎ忘れわす ずに接するという、小さいときからの自分の生活態度をずっと守りつづけたようなタイプの人のほうが、最後までがんばりぬいて弱音を吐くは ことがなかった、という。そんな話を聞いたりすると、うーん、それも新しいサバイバルの方法であるな、という感じがします。
 同じようなことは、今世紀最大の悲劇ひげきと語りつがれるアウシュヴィツの強制収容しゅうよう所でもいえそうです。
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を連行し、そして強制的な収容しゅうよう所をつくり、そのなかでもっとも残虐ざんぎゃく殺戮さつりくが行われたのがアウシュヴィッツです。
 その地獄じごくから奇蹟きせき生還せいかんをしたフランクルという人が、そこで起こったことを記録にまとめ世に出します。それが翻訳ほんやくされて日本では『夜ときり』というタイトルの本になり、多くの人びとに、人間存在そんざい残酷ざんこくさと、そのなかで宝石ほうせきのように光る生の尊厳そんげんを静かに訴えうった て、いまでもロングセラーとして読まれつづけています。
 ほとんどの人が死んでゆくなかでフランクルがどのようにその極限状態を生きぬいて奇蹟きせき生還せいかんをとげたか、ということが、ぼくにとっては興味の的だった。いろんなことがあります。
 精神科医だったフランクルは、人間がこの極限状態のなかを耐えた て最後まで生きぬいていくためには、感動することが大事、喜怒哀楽きどあいらくの人間的な感情が大切だ、と考えるのです。無感動のあとにくるのは死のみである。そして自分の親しい友だちと相談し、なにか毎日ひとつずつおもしろい話、ユーモラスな話をつくりあげ、お互いに たが  それを披露ひろうしあって笑おうじゃないか、と決めるのです。
 あすをも知れない極限状態のなかで笑い話をつくって、お互い たが に笑いあうなんていうことになんの意味があるのか、と思われそうですけれども、そうではないのです。あすの命さえも知れないような強制収容しゅうよう所の生活のなかでユーモアのあるジョークを一生懸命いっしょうけんめいに考え、お互い たが 披露ひろうしあって、栄養失調の体で、うふ、ふ、ふ、と、力なく笑う。
 こういうことをノルマのように決めて毎日実行したというのですが、むしろそういうことも、ひょっとしたらフランクルが奇蹟きせき生還せいかんをとげる上での大事な役割やくわりを果たしていたのではないか、と思います。
 ユーモアというのは単に暇つぶしひま   のことでなく、ほんとに人間が人間性を失いかけるような局面のなかでは人間のたましいをささえていく大事なものだ、ということがよくわかります。
 また、同じように――風景というものに対して非常に感受性のつよい人間がいる。そして、たとえば強制労働のなかで水たまりに
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 11.2週 hu2のつづき
映っうつ た冬の枯れ枝か えだの風景を眺めなが て、あの、レンブラントの絵のようだ、なんていうことを考えたりする人がいる。こういう感じかたをする人のほうがじつは強制収容しゅうよう所の非人間的な生活のなかでは、むしろ強く、生き延びるい の  ことができたのです。

 このエピソードは、人間が健康とか体力だけで厳しいきび  条件に耐えた られるものではない、ということを如実にょじつに表現しているような気がしないでもありません。

(五木寛之ひろゆきの文章より)
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 11.3週 hu2
 「作戦を練る」という表現があるが、これは「作戦を立てる」ということとはニュアンスが異なること  。「作戦を立てる」は、ただ一つの作戦を案出する場合にも用いることができる。これに対して「作戦を練る」は、数多くの作戦を比較ひかく吟味ぎんみし、それぞれのよい点を組み合わせながらより良質な作戦へとみがきあげていくことを意味する。練りあげられた場合の作戦は、たとえ単数であっても、その背後はいごには吟味ぎんみされた数多くの作戦がある。練るという動詞どうしは、あえて困難こんなんをぶつけて柔軟性じゅうなんせいをもたせ、きたえるということを意味している。この場合も、作戦がうまくいったケースではなく、うまくいかなかったケースという困難こんなんな場合をさまざまにシミュレーションし、その想像上の難局なんきょく柔軟じゅうなんに対応しうるものへと案をみがきあげていくのである。練るという行為こういは、数多くのアイディアをとけこませるということでもある。
 「考えを練る」や「文章を練る」という表現における「練る」も同様である。よく練られた考えや文章は、単純たんじゅんな思いつきで変更へんこうすることのできない奥行きおくゆ をもっている。考えや文章にねばり強さをあたえるのは、こうした吟味ぎんみを続けることのできる精神のねばり強さである。練るという言葉の存在そんざいが、こうしたねばり強さが育つのを助ける。「技を練る」という言葉があるように、「練る」は反復練習をして身につけるという意味をもっている。
 かつては日常生活の中で練るという行為こういは数多くあった。水飴みずあめは、二本の割りばしわ   でぐるぐると練っていくうちにやわらかくなった。うどんもねばりけのないただの粉から、水をくわえてくり返し練ることでねばりが出てくる。うどんやめんの場合は、このねばり強さを「コシがある」と表現する。こしのイメージは、土俵際でもねばれる相撲すもう取りの「ねばりごし」のように、しなやかで強いイメージである。追いこまれたときにぽっきりと折れてしまうかたさではなく、ぎりぎりのところでしなやかに受け止めて持ちこたえることのできるのが「ねばりごし」であり、それをつくるのが練るという作業である。相撲すもうのけいこは鉄砲てっぽう四股しこなど一見単純たんじゅんなものが中心となっているが、これは、からだとりわけ足腰あしこしを練ることを目的と
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

しているからである。
(中略)
 やわらかくしてねばり強くするという「練る」本来の意味をからだの動きとして実感しやすかったのは、わたしの場合、太極拳たいきょくけんの練習であった。太極拳たいきょくけんはゆっくりと動くわけだが、低い姿勢しせい維持いじすることも多く、からだをやわらかくねばり強くすることをうながす。片足かたあしで立って重心をゆっくりと動かしていく動きも多いので、じくの感覚がしなやかで強靱きょうじんでないとバランスをくずす。しかも、形をまねしただけでは、いわば「仏作ってたましい入れず」になってしまうので、からだのすみずみにまで気を行きわたらせることも求められる。
 じょうずな人の太極拳たいきょくけんの動きを見ていると、よくのびる練り物のようであり、とどこおりがない。しかも、たんに水が流れるがごとくというだけではなく、実際にこしが決まっていることもあって、コシのあるうどんのようなしんの強さを感じさせる。うどんは水をくわえて練るまではバラバラな粉である。練り続けていくうちに、それぞれが結びついて一つのものとしてつながってくる。太極拳たいきょくけんは、自分のからだをうどんに練りあげていくイメージとわたしの中では重なるところがあった。からだのいろいろな部分がバラバラであるようにはじめ感じられたのが、やっていくうちに足の先から手の先までつながっている身体感覚に変わっていった。一瞬いっしゅんに終わる早い動きではなく、ゆっくりした動きなので、自分のからだの各部の状態をゆっくりと内側から感じることができやすかった。
 練るは、一回性のできごとではない。目的意識を長く持続させ、一見たいくつな動きのくり返しをあきたりなまけたりすることなく行うことである。そのくり返しの間、感覚は鋭敏えいびんに保たなければならない。これは根気のいる息の長い身体の文化である。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 11.4週 hu2
 簡単かんたんにいえば、「義」とは、打算や損得のない人としての正しい道、つまり「正義」である。「道義」「節義」の意味もこれにあたる。
 新渡戸にとべ博士がいうように、なんと厳しいきび  おきて」であるか。なぜなら、簡単かんたんに「人としての正しい道」といっても、それは個人的な観念であり、いわば「道徳」である。実行しなければばっせられるといった「法律ほうりつ」とは違うちが 法律ほうりつならば「してはいけないこと」が法文化されていて明確にわかるが、自己じこの観念にもとづく道徳は人間の内面に据えす られた「良心のおきて」であり、その基準は個人によって違うちが からである。
 道徳(モラル)と法律ほうりつ(ルール)の本質的な違いちが は、道徳は良心のおきてである以上「不変」なものだが、法律ほうりつは社会の都合で「変化」させることができるもの、とされている。
 たとえば交通法規などは社会の都合にともなって、それに即応そくおうしたものに変えられるが、「うそをつくな」「弱い者をいじめるな」といった良心のおきては、いかに社会が変わろうとも変わるものではないからだ。
 では、良心のおきてとされる普遍ふへん的な道徳とは何か。一般いっぱんにはそれが儒教じゅきょうのいう「五常」、すなわち「・義・礼・・信」とされている。簡単かんたんにいえば、その基本は先に少し触れふ たように、「人に優しくやさ  あれ」「正直であれ(うそをつくな)」「約束を守れ」「弱い者をいじめるな」「卑怯ひきょうなことをするな」「人に迷惑めいわくをかけるな」などがあげられ、人が人として行なわなければならない良心のことだ。だから、これらを犯すとき、われわれは「良心の呵責かしゃく」に襲わおそ れるのである。
 キリスト教ではこの良心のおきてを「神の声」としているが、儒教じゅきょうは神を語らない。それに代るものとして「天」を置いた。儒教じゅきょうを学んだ武士も、その良心の相手を「天」となし、天が見ているものとして守ったのである。そのことを示す有名な言葉が、
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

老子の「天網恢恢疎てんもうかいかいそにして漏らさも  ず」(天道は厳正げんせいで悪事には早晩そうばんかならず悪の報いがあるとの意)である。要するに武士道では、個人の道徳りつ人倫じんりんの道として、現実社会の法律ほうりつ超越ちょうえつした「天道」に従うしたが ことが義務づけられたのである。
 ところで、ここが重要なところだが、武士道は「五常」の中でも、とくに「義」を最高の支柱に置いている。
 なぜか。その理由の第一は「人としての正しい道」である「義」が、他の徳目とくらべてみて、もっとも難しいむずか  ものだからである。というのも、この「義」は武士のみならず、いかなる人間においても、どのような社会にあっても人の世の基本であるからだ。この「義」(正義)が守られなければ平穏へいおんな社会は築けない。これは現在の社会とて変るものではない。歌の文句ではないが、「義理(正義)がすたれば、この世はやみ」である。
 それゆえにこそ為政者いせいしゃ側の武士は、江戸えど時代あたりから軍人的性格より行政官としての任務をもつようになると、「庶民しょみんの手本」となることが要求され、「義」を美学として生きることが義務づけられたのである。武士道では徹底的てっていてきに、何が正しいかの「義の精神」を教え、彼らかれ の行動判断の基準をこの「義」と定め、その行動の中に「義」があるかないかを常に問われたのである。

 (岬龍一郎『日本人の品格』〈PHP文庫〉)
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 12.1週 hu2
 人間には、身体的なエネルギーだけではなく、心のエネルギーというものもある、と考えると、ものごとがよく了解りょうかいできるようである。同じ椅子いすに一時間座っすわ ているにしても、一人でぼうっと座っすわ ているのと、 客の前で座っすわ ているのとではつかれ方がまったくちがう。身体的には同じことをしていても「心」を使っていると、それだけ心のエネルギーを使用しているのでつかれるのだ、 と思われる。
 このようなことはだれしもある程度知っていることである。そこで、人間はエネルギーの節約につとめることになる。仕事など必要なことに使うのは仕方ないとして、不必要なことに、心のエネルギーを使わないようにする、となってくると、人間が何となく無愛想になってきて、生き方にうるおいがなくなってくる。他人に会うたびに、にこにこしていたり、相手のことに気をつかったりするとエネルギーの浪費ろうひになるというわけである。ときに、役所の窓口まどぐちなどに、このような省エネの見本のような人を見かけることがある。まったくもって無愛想に、じゃまくさそうに応対をしているのである。そのくせ、つかれた顔をしたりしているところが、おもしろいところである。
 これとは逆に、エネルギーがあり余っているのか、と思う人もある。仕事に熱心なだけではなく、趣味しゅみにおいても大いに活躍かつやくしている。他人に会うときも、いつも元気そうだし、いろいろと心づかいをしてくれる。それでいて、それほどつかれているようではない。むしろ、人よりは元気そうである。
 このような人たちを見ていると、人間には生まれつき、心のエネルギーをたくさんもっている人と、少ない人とがあるのかな、と思わされる。いろいろな能力において、人間に差があるように、心のエネルギー量というのにも生まれつきの差があるのだろうか。これは大問題なので、今回は取りあげないことにして、もう少し他のことを考えてみよう。
 他との比較ひかくではなくて、自分自身のことを考えてみよう。たとえば、自分がが好きだとして、を打っているために使用される心のエネルギーを節約して、もう少し仕事の方に向けようと考えてみるとしよう。そこで、友人とを打つ回数を少なくして、仕事に力を入れようとして、果たしてうまくゆくだろうか。あるいは、今まで運動などまったくしなかったのに、ふと友人にさそわれてテニスをはじめると、それがなかなかおもしろい。だんだんと熱心にテ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

ニスの練習に打ちこむようになる。そんなときに、仕事の方は、前より能率が悪くなっているだろうか。あんがい、以前と変わらないことが多い。テニスの練習のために、以前よりも朝一時間早く起きているのに、仕事をさぼるどころか、むしろ、仕事に対しても意欲いよく的になっている、というときもあるだろう。
 もちろん、ものごとには限度ということがあるから、趣味しゅみに力を入れれば入れるほど、仕事もよくできる、などと簡単かんたんには言えないが、ともかく、エネルギーの消耗しょうもう片方かたほうでおさえると、片方かたほうで多くなる、というような単純たんじゅん計算が成立しないことは了解りょうかいされるであろう。片方かたほうでエネルギーをついやすことが、かえって他の方に用いられるエネルギーの量も増加させる、というようなことさえある。
 以上のことは、人間は「もの」でもないし「機械」でもない、生きものである、という事実によっている。
 人間の心のエネルギーは、多くの「鉱脈」のなかにうずもれていて、新しい鉱脈をほり当てると、これまでとは異なること  エネルギーが供給きょうきゅうされてくるようである。このような新しい鉱脈をほり当てることなく、「手持ち」のエネルギーだけにたよろうとするときは、確かに、それを何かに使用すると、その分だけどこかで節約しなければならない、という感じになるようである。
 このように考えると、エネルギーの節約ばかり考えて、新しい鉱脈をほり当てるのをおこたっている人は、たからの持ちぐされのようなことになってしまう。あるいは、ほり出されないエネルギーが、底の方で動くので、何となくイライラしていたり、時にエネルギーの暴発現象を起こしたりする。これは、いつも無愛想に、感情をめったに表に出さない人が、ちょっとしたことで、カッとおこったりするような現象としてあらわれたりする。
 自分のなかの新しい鉱脈をうまくほり当ててゆくと、人よりは相当に多く動いていても、それほどつかれるものではない。それに、心のエネルギーはうまく流れると効率のいいものなのである。他人に対しても、心のエネルギーを節約しようとするよりも、むしろ、上手に流してゆこうとする方が、効率もよいし、そのことを通じて新しい鉱脈の発見に至るいた こともある。心のエネルギーの出しおしみは、結果的に損につながることが多いものである。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 12.2週 hu2
 先ごろ世間で流行した「ノウと言えない日本人」は、日本人ならだれでも思いあたる節があって、広く話題になった。もちろん、くやしい。しかし仕方がない。それこそ、こうバカにされても、「ノウ」と言えなかったのである。だから、この納得なっとくと反発をたくみについて、「ノウ」と言える人物として、新しい都知事が選挙戦をたたかい、みごと圧勝した。
 日本人はそれほど「ノウ」と言えないから、「ノウ」と言う人は勇気があるとされる。「ノウあるタカ」というジョークも聞かれた。
 しかし、考えてみると、何事にせよ、イエスかノウかはごくごく基本の判断だから、内容によってもっとも単純たんじゅんに下されるはずのものだ。それなのに、「ノウ」と言う人が勇敢ゆうかんな人だというのは、とてもおかしい。無心な赤ちゃんがイヤイヤをすると勇敢ゆうかんだなどということにはならないから、イエス・ノウがはっきりしている人は、もしかしたら、赤ちゃんに近い人かもしれない。そうであるにもかかわらず「日本人は『ノウ』となかなか言えない」という命題は、今日も生きつづけている。日本人の生き方の、ごくごく根幹にある、大きな問題らしい。
 そこでおもしろいことを思い出す。
 もう五十年以上前になったが、第二次世界大戦でシンガポールを陥落かんらくに追いこんだ日本の山下奉文ともゆき大将たいしょうがイギリスのパーシバル将軍しょうぐんと停戦協定を結ぼうとしたときに、大将たいしょう将軍しょうぐんにむかって、「イエス」か「ノウ」かと大喝だいかつしたという。
 戦争中、もてはやされた武勇伝だった。この話は絶対に優位ゆういにたった人間が相手に判断をうながすとき、いっさいのあいまいで情緒じょうちょ的なことは考慮こうりょの外において、明快に答えを要求した、という話である。
 もしイエス・ノウをはっきりさせるというのなら、いつも複雑な心の動きを捨てるす  ことになる。将軍しょうぐんがイエスと言えば力に屈しくっ て言ったのだし、ノウと言えば力に反抗はんこうして言ったことになる。明快なイエス・ノウは力の関係から出てくるらしい。反対に、あいまいにイエスでもノウでもない答えは、心がちらつく加減から発せられるらしい。
 日常生活でもそうだ。たとえば借金を申し込まもう こ れる。ニベもなく
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

「断る。」と言えるのは相手が絶対に弱いときだ。そこを、「この人も困っこま ているだろうナ。」などと考えはじめると、貸したくもないのに、ついつい「いやです。」とはすぐに言えずに、グダグダ言いはじめてなかなか「ノウ」とは言えない。アメリカに対して日本が「ノウ」と言えない関係も、第一に力の大きさが違いちが すぎることがあるが、日本人は「アメリカが日本が断ることで困っこま てしまうのではないか。」などと考えて、すくには「ノウ」と言えない。そうなると、イエス・ノウをはっきりさせるというのは、明快というよりごく単純たんじゅんな表現だというべきだろう。イエス・ノウという単純たんじゅんな二極分類は、判断が浅いにすぎない。
 むしろ、すぐに「ノウ」と言わない日本人の伝統的な表現は、相手の立場も十分考え、単純たんじゅんな力関係でイエス・ノウを判定することをせず、イエスとノウという両極の間の程よい位置を見定めようとする態度ではないのか。イエスとノウとの間には、じつはたいへんな距離きょりがある。その間のどこで答えを出すか、それを考えることこそが、いま大切なのだ。
 これをイエスでもない、ノウでもない「第三の返事」と呼んよ でおこう。熟考じゅっこうのうえだから聡明そうめいな返事だ。ウンウンかイヤイヤではないのだから、成熟せいじゅくした大人の返事だ。ただ、あいまいだと受けとられると困るこま 。自分が何を考えているか、相手にはっきり言う必要がある。熟慮じゅくりょが十分伝わらなければ意味がない。
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
a 長文 12.3週 hu2
 道具との距離きょりが遠くなったことはそのまま自然がわれわれから遠くなったことでもある。かつてなにをすべきかという人間の疑問ぎもんに答えたのは自然だった。自然の解答は時としておそろしく苛酷かこくで矢つぎばやで、人はそれを遂行すいこうするに忙しくいそが  、時には遂行すいこうしきれないで死ななくてはならないこともあった。だがなにをすればよいかわからないなどという馬鹿げばか 宙ぶらりんちゅう    なみじめな状態を人は知らなかった。今ではみんなが途方とほうにくれている。自然との関係において自分を人間にしたてあげてゆくような者はもういない。人間はもうこの世界から絶滅ぜつめつしかけている。自然は死んだとメアリ・マッカーシーは言うが、死んだのは人間にとっての自然、と言うより自然の前における人間の方なのだ。今、数を誇っほこ ている奇妙きみょうなこの生物をどんな名で呼ぶよ べきだろうか。
 彼等かれらは最近気まぐれな女々しいノスタルジアから手づくりの道具云々うんぬんと口走っている。だが自然からかくも離れはな てしまった彼等かれら、物を加工するにあたって不可欠な形と質と重さと強度の感覚を養成することを怠っおこた てきた彼等かれらにいったい何が作れるというのか。まいの板がどれだけの荷に耐えた 、どれだけの荷でしなうか、それを材料工学によってではなく感覚的に知る者はいない。従ってしたが  おそらく彼等かれらが手で作る物はすべて醜くみにく 、使用に耐えた ず(あるいは使用目的さえ明らかでなく)要するにガラクタに過ぎないだろう。あるいは料理にしても、料理Aを作るために材料a・b・cを集めることは知っているが、まず材料aを与えあた られてそこから出発するという自然な順序では何一つできない。自然の中で生命を維持いじすることは生物の基本的条件だが、大半の人間はそれを満たしていない。ロビンソン・クルーソーの資格をもつものはほとんどいないだろう。
 道具についてもう少し考えてみよう。道具はどのようにして作られ、どのような関係を人とのあいだに結ぶか。自然に近い場で暮らすく  者にとっておのは大変便利な道具である。そのような場所ではある年齢ねんれいに達した男子はみな自分のおのを持ち、どこへ行くにもそれを携えるたずさ  。ある少年がやっとその年齢ねんれいに達したとしよう。父親は
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

息子を呼んよ で「おのを持つべき時が来た」と多分もったいぶった口調で宣言せんげんする。そして翌日よくじつ、父親と少年は僅かわず な食料を持って山に入り、密林みつりんをぬけ、川を渡っわた 特殊とくしゅな石を産する山奥やまおくのある場所へ行く。そこに転がっている石同士を打ちあわせて割りわ 、適当な劈開へきかい面の出ている破片はへんを選び出す。そしてほかの石で一部を注意深く欠いたり、岩に根気強くこすりつけたりして形を整える。を作るにはまた別の場所へ行ってしかるべき種類の木の特定の枝ぶりのところを切ってこなくてはならない。あるいはそれを火にあぶって少々曲げ、てのひらになじむようにするかもしれない。枝に割れ目わ めをいれて石へんをはさむようにすることも考えられる。これらの作業を息子は熱心に見ている。この次にはそれを自分一人でやらなくてはならないのだから。石へん縛りつけるしば    には藤蔓ふじづるを切ってきて乾かしかわ  裂いさ てしごいて丈夫じょうぶ繊維せんいを取り出さなくてはならない。これだけの手間をかけて作り、いつも持ち歩いて使用し、時にはそれによって危険きけんから脱しだっ たりもするおのとなれば、持ち主にとって貴重きちょうなものであるのもうなずける。貴重きちょうではあるがそれは宝石ほうせきなどのような経済けいざいの法則が勝手に決めたあやふやな価値かちではなく、使われるが故の単純たんじゅん価値かちである。道具は作られ、使われ、次第に手になじみ、時にはこわれ、修理され、ゆっくりとある特定の変化をとげてゆく。またすべての道具が自作で粗末そまつで原始的である必要はない。サン=テクジュペリにとっての飛行機は、まさに農夫にとってのくわのように、道具だった。飛行機が人間について万巻まんがんの書よりも多くを教えるからだとかれは言う。だから晩年ばんねんあまりに複雑になりすぎた飛行機を操縦そうじゅうするようになってからのかれはもう飛行機のことは書かなかった。
 道具が道具になってゆく過程と対応してその前で一人の人間が作られてゆく。それが珍しいめずら  ことになってからもうずいぶん長い時間がたった。人がものを大事にしなくなったから、ものの方も居心地悪げで、折を見ては逃げだそに   うと待ちかまえている、とリルケが書
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534 
 
長文 12.3週 hu2のつづき
いたのは今世紀初頭のことだ。それ以来人と物との関係は劇的げきてきな速度で悪化した。われわれはみな甘やかさあま   れて駄目だめになった子供こどもたち、鉛筆えんぴつをけずることさえできない子供こどもたちの時代に属している。
 999897969594939291908988878685848382818079787776757473727170696867 


□□□□□□□□□□□□□□
 
a 長文 12.4週 hu2
 以前、わたしは政府の国語審議しんぎ会の委員を三期つとめたことがある。そこでの大きな課題の一つは、敬語けいごの表現をどう考えるかであった。敬語けいごが日本語にはたくさんあって、複雑で、外国人泣かせであることは、よく知られている。
 もちろん外国語にも、相手を尊敬そんけいした表現はたくさんあって、日本語だけのものではない。委員のなかには「敬語けいごは日本語独自の美風だ」などと言う人がいて、わたしはぎょう天した。
 じつはつい最近、わたしはヨーロッパの小旅行の途中とちゅう、バスの座席ざせき幼子おさなご座らすわ せようとして、父親が「プリーズシットダウン」というのを小耳にはさんで、気持よかった。ただ「シットダウン」だけでもいいのに。
 また、上等な人ほど表現は丁ねいである。人にものをたのむときも遠回しに言い、プリーズばかりか「for me」を加えたりする。
 だから日本語に敬語けいごが目立つというのは人種が上等なだけだ(!)。
 さてその上等ぶりは、どんな内容なのか、いろいろあるなかでまずとり上げるものとして、「〜させていただく」という言い方がある。「どうぞ、どうぞ」と椅子いすをすすめられると「ありがとうございます。座らすわ せていただきます」と言う。「じゃ座りすわ ます」などとは言わない。
 「いっしょに帰りませんか」。「はい、おともをさせていただきます」。要するにこれは相手の行動によって自分がそうさせてもらうという意味だ。自分を椅子いす座らすわ せるのも相手。相手といっしょに帰っても、対等に行動をともにしているのではなくて、相手は自分をともとして従えるしたが  そのように自分をさせる、と考えるのである。
 あくまでも相手が主で、自分はそれに従っしたが ているにすぎない。
 これは、自分から進んでやるばあいでもそうだ。「本日司会をつとめさせていただきます田中です」と言って、司会は自分から口を切る。とつぜん客席から声があがって「つとめさせたのはだれだ」と聞くわけでもない。みんな当然のように聞いている。
 いや、いちいち聞きさえもしないほど、あたりまえの表現であろ
 333231302928272625242322212019181716151413121110090807060504030201 

う。つまり、それほど相手をたてるのが日本語だということになる。先ほどから問題にしている高級さとか上等さとかの中身は、じつはこの相手への尊重そんちょうであった。
 そこで念のためだが、相手への尊重そんちょうを、封建ほうけん的なものとか、階級意識とかと誤解ごかいしては困るこま 
 そもそも日本語の敬語けいごは、最初は親愛の気持をあらわす方法だった。八世紀のころはそうである。
 それがやがて敬愛けいあいの気持をあらわすようになり、やがて尊敬そんけいの気持の表現となった。
 そのうえでも、尊敬そんけいするかどうかは個人の自由だから、階級と見合うものではなかったが、一部で階級と敬語けいご一致いっちしてしまった。
 そのばあいでも、心のなかで尊敬そんけいしてもいないのに敬語けいごを使うと、それこそ、いんぎん無礼になる。
 だからあくまでも敬語けいごは相手を愛する気持の表現方法なのだ。愛は尊敬そんけいがなくては生じない。尊敬そんけいの気持のない愛があったら、お目にかかりたい。それがごく自然に出ているのが本来の敬語けいご、さっき親愛をあらわすといったものだ。
 だからそもそもの敬語けいごは女性に対して発せられた。そもそも日本人の女性のあつかいは、愛と尊敬そんけいにみちていたのである。

 (中西進『日本人の忘れものわす   』(ウェッジ))
 666564636261605958575655545352515049484746454443424140393837363534