課題集

1.　【１】以前、私（わたし）は政府の国語審議（しんぎ）会の委員を三期つとめたことがある。そこでの大きな課題の一つは、敬語（けいご）の表現をどう考えるかであった。敬語（けいご）が日本語にはたくさんあって、複雑で、外国人泣かせであることは、よく知られている。
2.　【２】もちろん外国語にも、相手を尊敬（そんけい）した表現はたくさんあって、日本語だけのものではない。委員のなかには「敬語（けいご）は日本語独自の美風だ」などと言う人がいて、私（わたし）はぎょう天した。
3.　【３】じつはつい最近、私（わたし）はヨーロッパの小旅行の途中（とちゅう）、バスの座席（ざせき）に幼子（おさなご）を座ら（すわ　）せようとして、父親が「プリーズシットダウン」というのを小耳にはさんで、気持よかった。ただ「シットダウン」だけでもいいのに。
4.　【４】また、上等な人ほど表現は丁ねいである。人にものをたのむときも遠回しに言い、プリーズばかりか「ｆｏｒ　ｍｅ」を加えたりする。
5.　だから日本語に敬語（けいご）が目立つというのは人種が上等なだけだ（！）。
6.　【５】さてその上等ぶりは、どんな内容なのか、いろいろあるなかでまずとり上げるものとして、「〜させていただく」という言い方がある。「どうぞ、どうぞ」と椅子（いす）をすすめられると「ありがとうございます。座ら（すわ　）せていただきます」と言う。「じゃ座り（すわ　）ます」などとは言わない。
7.　【６】「いっしょに帰りませんか」。「はい、おともをさせていただきます」。要するにこれは相手の行動によって自分がそうさせてもらうという意味だ。自分を椅子（いす）に座ら（すわ　）せるのも相手。相手といっしょに帰っても、対等に行動をともにしているのではなくて、相手は自分を供（とも）として従える（したが　　）。【７】そのように自分をさせる、と考えるのである。
8.　あくまでも相手が主で、自分はそれに従っ（したが　）ているにすぎない。
9.　これは、自分から進んでやるばあいでもそうだ。「本日司会をつとめさせていただきます田中です」と言って、司会は自分から口を切る。【８】とつぜん客席から声があがって「つとめさせたのはだれだ」と聞くわけでもない。みんな当然のように聞いている。
10.　いや、いちいち聞きさえもしないほど、あたりまえの表現であろ∵う。つまり、それほど相手をたてるのが日本語だということになる。【９】先ほどから問題にしている高級さとか上等さとかの中身は、じつはこの相手への尊重（そんちょう）であった。
11.　そこで念のためだが、相手への尊重（そんちょう）を、封建（ほうけん）的なものとか、階級意識とかと誤解（ごかい）しては困る（こま　）。
12.　【０】そもそも日本語の敬語（けいご）は、最初は親愛の気持をあらわす方法だった。八世紀のころはそうである。
13.　それがやがて敬愛（けいあい）の気持をあらわすようになり、やがて尊敬（そんけい）の気持の表現となった。
14.　そのうえでも、尊敬（そんけい）するかどうかは個人の自由だから、階級と見合うものではなかったが、一部で階級と敬語（けいご）が一致（いっち）してしまった。
15.　そのばあいでも、心のなかで尊敬（そんけい）してもいないのに敬語（けいご）を使うと、それこそ、いんぎん無礼になる。
16.　だからあくまでも敬語（けいご）は相手を愛する気持の表現方法なのだ。愛は尊敬（そんけい）がなくては生じない。尊敬（そんけい）の気持のない愛があったら、お目にかかりたい。それがごく自然に出ているのが本来の敬語（けいご）、さっき親愛をあらわすといったものだ。
17.　だからそもそもの敬語（けいご）は女性に対して発せられた。そもそも日本人の女性のあつかいは、愛と尊敬（そんけい）にみちていたのである。

18.　（中西進『日本人の忘れもの（わす　　　）』（ウェッジ））