長文集  12月4週  ○以前、私は政府の(感)  hu2-12-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/09/10 19:37:47
 【1】以前、私は政府の国語審議会の委員
を三期つとめたことがある。そこでの大きな
課題の一つは、敬語の表現をどう考えるかで
あった。敬語が日本語にはたくさんあって、
複雑で、外国人泣かせであることは、よく知
られている。
 【2】もちろん外国語にも、相手を尊敬し
た表現はたくさんあって、日本語だけのもの
ではない。委員のなかには「敬語は日本語独
自の美風だ」などと言う人がいて、私はぎょ
う天した。
 【3】じつはつい最近、私はヨーロッパの
小旅行の途中、バスの座席に幼子を座らせよ
うとして、父親が「プリーズシットダウン」
というのを小耳にはさんで、気持よかった。
ただ「シットダウン」だけでもいいのに。
 【4】また、上等な人ほど表現は丁ねいで
ある。人にものをたのむときも遠回しに言い
、プリーズばかりか「for me」を加え
たりする。
 だから日本語に敬語が目立つというのは人
種が上等なだけだ  (!)。
 【5】さてその上等ぶりは、どんな内容な
のか、いろいろあるなかでまずとり上げるも
のとして、「〜させていただく」という言い
方がある。「どうぞ、どうぞ」と椅子をすす
められると「ありがとうございます。座らせ
ていただきます」と言う。「じゃ座ります」
などとは言わない。
 【6】「いっしょに帰りませんか」。「は
い、おともをさせていただきます」。要する
にこれは相手の行動によって自分がそうさせ
てもらうという意味だ。自分を椅子に座らせ
るのも相手。相手といっしょに帰っても、対
等に行動をともにしているのではなくて、相
手は自分を供(とも)として従える。【7】
そのように自分をさせる、と考えるのである

 あくまでも相手が主で、自分はそれに従っ
ているにすぎない。
 これは、自分から進んでやるばあいでもそ
うだ。「本日司会をつとめさせていただきま
す田中です」と言って、司会は自分から口を
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切る。【8】とつぜん客席から声があがって
「つとめさせたのはだれだ」と聞くわけでも
ない。みんな当然のように聞いている。
 いや、いちいち聞きさえもしないほど、あ
たりまえの表現であろ∵う。つまり、それほ
ど相手をたてるのが日本語だということにな
る。【9】先ほどから問題にしている高級さ
とか上等さとかの中身は、じつはこの相手へ
の尊重であった。
 そこで念のためだが、相手への尊重を、封
建的なものとか、階級意識とかと誤解しては
困る。
 【0】そもそも日本語の敬語は、最初は親
愛の気持をあらわす方法だった。八世紀のこ
ろはそうである。
 それがやがて敬愛の気持をあらわすように
なり、やがて尊敬の気持の表現となった。
 そのうえでも、尊敬するかどうかは個人の
自由だから、階級と見合うものではなかった
が、一部で階級と敬語が一致してしまった。
 そのばあいでも、心のなかで尊敬してもい
ないのに敬語を使う と、それこそ、いんぎ
ん無礼になる。
 だからあくまでも敬語は相手を愛する気持
の表現方法なのだ。愛は尊敬がなくては生じ
ない。尊敬の気持のない愛があったら、お目
にかかりたい。それがごく自然に出ているの
が本来の敬語、さっき親愛をあらわすといっ
たものだ。
 だからそもそもの敬語は女性に対して発せ
られた。そもそも日本人の女性のあつかいは
、愛と尊敬にみちていたのである。

 (中西進『日本人の忘れもの』(ウェッジ
))