フジ2 の山 12 月 1 週 (5)
○人間には、身体的な(感)   池新  
 【1】人間には、身体的なエネルギーだけではなく、心のエネルギーというものもある、と考えると、ものごとがよく了解できるようである。【2】同じ椅子に一時間座っているにしても、一人でぼうっと座っているのと、 客の前で座っているのとではつかれ方がまったくちがう。【3】身体的には同じことをしていても「心」を使っていると、それだけ心のエネルギーを使用しているのでつかれるのだ、 と思われる。
 このようなことはだれしもある程度知っていることである。そこで、人間はエネルギーの節約につとめることになる。【4】仕事など必要なことに使うのは仕方ないとして、不必要なことに、心のエネルギーを使わないようにする、となってくると、人間が何となく無愛想になってきて、生き方にうるおいがなくなってくる。【5】他人に会うたびに、にこにこしていたり、相手のことに気をつかったりするとエネルギーの浪費になるというわけである。ときに、役所の窓口などに、このような省エネの見本のような人を見かけることがある。【6】まったくもって無愛想に、じゃまくさそうに応対をしているのである。そのくせ、つかれた顔をしたりしているところが、おもしろいところである。
 【7】これとは逆に、エネルギーがあり余っているのか、と思う人もある。仕事に熱心なだけではなく、趣味においても大いに活躍している。他人に会うときも、いつも元気そうだし、いろいろと心づかいをしてくれる。【8】それでいて、それほどつかれているようではない。むしろ、人よりは元気そうである。
 このような人たちを見ていると、人間には生まれつき、心のエネルギーをたくさんもっている人と、少ない人とがあるのかな、と思わされる。【9】いろいろな能力において、人間に差があるように、心のエネルギー量というのにも生まれつきの差があるのだろうか。これは大問題なので、今回は取りあげないことにして、もう少し他のことを考えてみよう。
 【0】他との比較ではなくて、自分自身のことを考えてみよう。たとえば、自分が碁が好きだとして、碁を打っているために使用される心のエネルギーを節約して、もう少し仕事の方に向けようと考えてみるとしよう。そこで、友人と碁を打つ回数を少なくして、仕事に力を入れようとして、果たしてうまくゆくだろうか。あるいは、今まで運動などまったくしなかったのに、ふと友人にさそわれてテニスをはじめると、それがなかなかおもしろい。だんだんと熱心にテ∵ニスの練習に打ちこむようになる。そんなときに、仕事の方は、前より能率が悪くなっているだろうか。あんがい、以前と変わらないことが多い。テニスの練習のために、以前よりも朝一時間早く起きているのに、仕事をさぼるどころか、むしろ、仕事に対しても意欲的になっている、というときもあるだろう。
 もちろん、ものごとには限度ということがあるから、趣味に力を入れれば入れるほど、仕事もよくできる、などと簡単には言えないが、ともかく、エネルギーの消耗を片方でおさえると、片方で多くなる、というような単純計算が成立しないことは了解されるであろう。片方でエネルギーをついやすことが、かえって他の方に用いられるエネルギーの量も増加させる、というようなことさえある。
 以上のことは、人間は「もの」でもないし「機械」でもない、生きものである、という事実によっている。
 人間の心のエネルギーは、多くの「鉱脈」のなかにうずもれていて、新しい鉱脈をほり当てると、これまでとは異なるエネルギーが供給されてくるようである。このような新しい鉱脈をほり当てることなく、「手持ち」のエネルギーだけにたよろうとするときは、確かに、それを何かに使用すると、その分だけどこかで節約しなければならない、という感じになるようである。
 このように考えると、エネルギーの節約ばかり考えて、新しい鉱脈をほり当てるのをおこたっている人は、宝の持ちぐされのようなことになってしまう。あるいは、ほり出されないエネルギーが、底の方で動くので、何となくイライラしていたり、時にエネルギーの暴発現象を起こしたりする。これは、いつも無愛想に、感情をめったに表に出さない人が、ちょっとしたことで、カッとおこったりするような現象としてあらわれたりする。
 自分のなかの新しい鉱脈をうまくほり当ててゆくと、人よりは相当に多く動いていても、それほどつかれるものではない。それに、心のエネルギーはうまく流れると効率のいいものなのである。他人に対しても、心のエネルギーを節約しようとするよりも、むしろ、上手に流してゆこうとする方が、効率もよいし、そのことを通じて新しい鉱脈の発見に至ることもある。心のエネルギーの出しおしみは、結果的に損につながることが多いものである。