1. 【1】「作戦を練る」という表現があるが、これは「作戦を立てる」ということとはニュアンスが
異なる。「作戦を立てる」は、ただ一つの作戦を案出する場合にも用いることができる。【2】これに対して「作戦を練る」は、数多くの作戦を
比較吟味し、それぞれのよい点を組み合わせながらより良質な作戦へとみがきあげていくことを意味する。練りあげられた場合の作戦は、たとえ単数であっても、その
背後には
吟味された数多くの作戦がある。【3】練るという
動詞は、あえて
困難をぶつけて
柔軟性をもたせ、きたえるということを意味している。【4】この場合も、作戦がうまくいったケースではなく、うまくいかなかったケースという
困難な場合をさまざまにシミュレーションし、その想像上の
難局に
柔軟に対応しうるものへと案をみがきあげていくのである。【5】練るという
行為は、数多くのアイディアをとけこませるということでもある。
2. 「考えを練る」や「文章を練る」という表現における「練る」も同様である。【6】よく練られた考えや文章は、
単純な思いつきで
変更することのできない
奥行きをもっている。考えや文章にねばり強さをあたえるのは、こうした
吟味を続けることのできる精神のねばり強さである。【7】練るという言葉の
存在が、こうしたねばり強さが育つのを助ける。「技を練る」という言葉があるように、「練る」は反復練習をして身につけるという意味をもっている。
3. 【8】かつては日常生活の中で練るという
行為は数多くあった。
水飴は、二本の
割りばしでぐるぐると練っていくうちにやわらかくなった。うどんもねばりけのないただの粉から、水をくわえてくり返し練ることでねばりが出てくる。【9】うどんやめんの場合は、このねばり強さを「コシがある」と表現する。
腰のイメージは、土俵際でもねばれる
相撲取りの「ねばり
腰」のように、しなやかで強いイメージである。【0】追いこまれたときにぽっきりと折れてしまう
硬さではなく、ぎりぎりのところでしなやかに受け止めて持ちこたえることのできるのが「ねばり
腰」であり、それをつくるのが練るという作業である。
相撲のけいこは
鉄砲や
四股など一見
単純なものが中心となっているが、これは、からだとりわけ
足腰を練ることを目的と∵しているからである。
4.(中略)
5. やわらかくしてねばり強くするという「練る」本来の意味をからだの動きとして実感しやすかったのは、
私の場合、
太極拳の練習であった。
太極拳はゆっくりと動くわけだが、低い
姿勢を
維持することも多く、からだをやわらかくねばり強くすることをうながす。
片足で立って重心をゆっくりと動かしていく動きも多いので、
軸の感覚がしなやかで
強靱でないとバランスをくずす。しかも、形をまねしただけでは、いわば「仏作って
魂入れず」になってしまうので、からだのすみずみにまで気を行きわたらせることも求められる。
6. じょうずな人の
太極拳の動きを見ていると、よくのびる練り物のようであり、とどこおりがない。しかも、たんに水が流れるがごとくというだけではなく、実際に
腰が決まっていることもあって、コシのあるうどんのような
芯の強さを感じさせる。うどんは水をくわえて練るまではバラバラな粉である。練り続けていくうちに、それぞれが結びついて一つのものとしてつながってくる。
太極拳は、自分のからだをうどんに練りあげていくイメージと
私の中では重なるところがあった。からだのいろいろな部分がバラバラであるようにはじめ感じられたのが、やっていくうちに足の先から手の先までつながっている身体感覚に変わっていった。
一瞬に終わる早い動きではなく、ゆっくりした動きなので、自分のからだの各部の状態をゆっくりと内側から感じることができやすかった。
7. 練るは、一回性のできごとではない。目的意識を長く持続させ、一見たいくつな動きのくり返しをあきたりなまけたりすることなく行うことである。そのくり返しの間、感覚は
鋭敏に保たなければならない。これは根気のいる息の長い身体の文化である。