長文 11.3週
1. 【1】「作戦を練る」という表現があるが、これは「作戦を立てる」ということとはニュアンスが異なること  。「作戦を立てる」は、ただ一つの作戦を案出する場合にも用いることができる。【2】これに対して「作戦を練る」は、数多くの作戦を比較ひかく吟味ぎんみし、それぞれのよい点を組み合わせながらより良質な作戦へとみがきあげていくことを意味する。練りあげられた場合の作戦は、たとえ単数であっても、その背後はいごには吟味ぎんみされた数多くの作戦がある。【3】練るという動詞どうしは、あえて困難こんなんをぶつけて柔軟性じゅうなんせいをもたせ、きたえるということを意味している。【4】この場合も、作戦がうまくいったケースではなく、うまくいかなかったケースという困難こんなんな場合をさまざまにシミュレーションし、その想像上の難局なんきょく柔軟じゅうなんに対応しうるものへと案をみがきあげていくのである。【5】練るという行為こういは、数多くのアイディアをとけこませるということでもある。
2. 「考えを練る」や「文章を練る」という表現における「練る」も同様である。【6】よく練られた考えや文章は、単純たんじゅんな思いつきで変更へんこうすることのできない奥行きおくゆ をもっている。考えや文章にねばり強さをあたえるのは、こうした吟味ぎんみを続けることのできる精神のねばり強さである。【7】練るという言葉の存在そんざいが、こうしたねばり強さが育つのを助ける。「技を練る」という言葉があるように、「練る」は反復練習をして身につけるという意味をもっている。
3. 【8】かつては日常生活の中で練るという行為こういは数多くあった。水飴みずあめは、二本の割りばしわ   でぐるぐると練っていくうちにやわらかくなった。うどんもねばりけのないただの粉から、水をくわえてくり返し練ることでねばりが出てくる。【9】うどんやめんの場合は、このねばり強さを「コシがある」と表現する。こしのイメージは、土俵際でもねばれる相撲すもう取りの「ねばりごし」のように、しなやかで強いイメージである。【0】追いこまれたときにぽっきりと折れてしまうかたさではなく、ぎりぎりのところでしなやかに受け止めて持ちこたえることのできるのが「ねばりごし」であり、それをつくるのが練るという作業である。相撲すもうのけいこは鉄砲てっぽう四股しこなど一見単純たんじゅんなものが中心となっているが、これは、からだとりわけ足腰あしこしを練ることを目的と∵しているからである。
4.(中略)
5. やわらかくしてねばり強くするという「練る」本来の意味をからだの動きとして実感しやすかったのは、わたしの場合、太極拳たいきょくけんの練習であった。太極拳たいきょくけんはゆっくりと動くわけだが、低い姿勢しせい維持いじすることも多く、からだをやわらかくねばり強くすることをうながす。片足かたあしで立って重心をゆっくりと動かしていく動きも多いので、じくの感覚がしなやかで強靱きょうじんでないとバランスをくずす。しかも、形をまねしただけでは、いわば「仏作ってたましい入れず」になってしまうので、からだのすみずみにまで気を行きわたらせることも求められる。
6. じょうずな人の太極拳たいきょくけんの動きを見ていると、よくのびる練り物のようであり、とどこおりがない。しかも、たんに水が流れるがごとくというだけではなく、実際にこしが決まっていることもあって、コシのあるうどんのようなしんの強さを感じさせる。うどんは水をくわえて練るまではバラバラな粉である。練り続けていくうちに、それぞれが結びついて一つのものとしてつながってくる。太極拳たいきょくけんは、自分のからだをうどんに練りあげていくイメージとわたしの中では重なるところがあった。からだのいろいろな部分がバラバラであるようにはじめ感じられたのが、やっていくうちに足の先から手の先までつながっている身体感覚に変わっていった。一瞬いっしゅんに終わる早い動きではなく、ゆっくりした動きなので、自分のからだの各部の状態をゆっくりと内側から感じることができやすかった。
7. 練るは、一回性のできごとではない。目的意識を長く持続させ、一見たいくつな動きのくり返しをあきたりなまけたりすることなく行うことである。そのくり返しの間、感覚は鋭敏えいびんに保たなければならない。これは根気のいる息の長い身体の文化である。