長文集  11月2週  ★価値が変動し(感)  hu2-11-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】価値が変動し、混乱していくなかで
、健康な体というの は、ひとつのよりどこ
ろにはなるでしょうが、健康な体、たくまし
い体だけがあればいいのかといえば、そうで
はないことは当然で す。
 【2】前にC・W・ニコルさんから南極か
どこかへ探検に行ったときの話を聞いたこと
があるのですが、彼はこんなことを言ってい
ました。
 【3】南極などの極地では、長いあいだテ
ントを張って、くる日もくる日も風と雪と氷
のなかで、じっと我慢して待たなければいけ
ないときがある。そういうときに、どういう
タイプの連中がいちばん辛抱づよく、最後ま
で自分を見失わずに耐えぬけたか。【4】ニ
コルさんに言わせると、それは必ずしも頑健
な体をもった、いわゆる男らしい男といわれ
るタイプの人ではなかったそうです。
 【5】たとえば、南極でテント生活をして
いると、どうしても人間は無精になるし、そ
ういうところでは体裁をかまう必要がないか
ら、身だしなみなどということはほとんど考
えなくてもいいわけです。【6】にもかかわ
らず、なかには、きちんと朝起きると顔を洗
ってひげを剃(そ)り、一応、服装をととの
えて髪もなでつけ、顔をあわせると「おはよ
う」とあいさつし、物を食べるときには「い
ただきます」と言う人もいる。【7】こうい
う社会的なマナーを身につけた人が意外にし
ぶとく強く、厳しい生活環境のなかで最後ま
で弱音を吐かなかった、というわけです。こ
れはおもしろい話だと思います。
 【8】礼儀、身だしなみ、こういうことは
極限状態のなかでは最後に考えることのよう
な気がします。しかし実際には、そういうな
かで顔をあわせたときにきちんと「おはよう
」とあいさつのできるような人、「ありがと
う」と言えるような人、【9】あるいは朝、
ほんのわずかな水で顔を洗い、ひげも剃(そ
)って、それなりに服装をととのえ、そして
他人と礼儀を忘れずに接するという、小さい
ときからの自分の生活態度をずっと守りつづ
けたようなタイプの人のほうが、最後までが
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んばりぬいて弱音を吐くことがなかった、と
いう。【0】そんな話を聞いたりすると、う
ーん、それも新しいサバイバルの方法である
な、という感じがします。
 同じようなことは、今世紀最大の悲劇と語
りつがれるアウシュヴィツの強制収容所でも
いえそうです。∵
 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダ
ヤ人を連行し、そして強制的な収容所をつく
り、そのなかでもっとも残虐な殺戮が行われ
たのがアウシュヴィッツです。
 その地獄から奇蹟の生還をしたフランクル
という人が、そこで起こったことを記録にま
とめ世に出します。それが翻訳されて日本で
は『夜と霧』というタイトルの本になり、多
くの人びとに、人間存在の残酷さと、そのな
かで宝石のように光る生の尊厳を静かに訴え
て、いまでもロングセラーとして読まれつづ
けています。
 ほとんどの人が死んでゆくなかでフランク
ルがどのようにその極限状態を生きぬいて奇
蹟の生還をとげたか、ということが、ぼくに
とっては興味の的だった。いろんなことがあ
ります。
 精神科医だったフランクルは、人間がこの
極限状態のなかを耐えて最後まで生きぬいて
いくためには、感動することが大事、喜怒哀
楽の人間的な感情が大切だ、と考えるのです
。無感動のあとにくるのは死のみである。そ
して自分の親しい友だちと相談し、なにか毎
日ひとつずつおもしろい話、ユーモラスな話
をつくりあげ、お互いにそれを披露しあって
笑おうじゃないか、と決めるのです。
 あすをも知れない極限状態のなかで笑い話
をつくって、お互いに笑いあうなんていうこ
とになんの意味があるのか、と思われそうで
すけれども、そうではないのです。あすの命
さえも知れないような強制収容所の生活のな
かでユーモアのあるジョークを一生懸命に考
え、お互いに披露しあって、栄養失調の体で
、うふ、ふ、ふ、と、力なく笑う。
 こういうことをノルマのように決めて毎日
実行したというのですが、むしろそういうこ
とも、ひょっとしたらフランクルが奇蹟の生
還をとげる上での大事な役割を果たしていた
のではないか、と思います。
 ユーモアというのは単に暇つぶしのことで
なく、ほんとに人間が人間性を失いかけるよ
うな局面のなかでは人間の魂をささえていく
大事なものだ、ということがよくわかります

 また、同じように――風景というものに対
して非常に感受性のつよい人間がいる。そし
て、たとえば強制労働のなかで水たまりに∵
映った冬の枯れ枝の風景を眺めて、あの、レ
ンブラントの絵のようだ、なんていうことを
考えたりする人がいる。こういう感じかたを
する人のほうがじつは強制収容所の非人間的
な生活のなかでは、むしろ強く、生き延びる
ことができたのです。

 このエピソードは、人間が健康とか体力だ
けで厳しい条件に耐えられるものではない、
ということを如実に表現しているような気が
しないでもありません。

(五木寛之の文章より)