フジ2 の山 11 月 1 週 (5)
○おとうさんとか(感)   池新  
 【1】おとうさんとか、おかあさんとか、兄弟とか、仲のよい友だちとか、そういう近しい間柄の人たちでさえ、時によると、私たちのしたこと、いったことをほんとうにわかってくれなかったり、まちがえて悪く思ったりすることがあります。【2】そのためにおたがいの仲がまずくなるということも、よくある例です。
 こういう場合には、誤解が私たちを不幸にします。【3】誤解を受けた私たちばかりでなく、誤解したおとうさんやおかあさんや友だちにだって、それは不幸なことです。【4】だから、こういう場合には、おたがいの不幸をとりのぞくために、誤解を残しておかないようにつとめなければなりません。ほんとうのことをわかってもらうように、よく話をしなければいけないと思います。
 【5】ところが、みなさんならば学校での大勢の友だち仲間、またおとなならば世間の人々など、そういう特に近しい間柄でない人たちが、私たちについていろいろいったり考えたりしていることに対しては私たちは、たとえそれが耳にはいっても、いちいちいいわけをしないですませるようにならなければいけないのです。【6】というのは、大勢の人を相手に、いちいちいいわけをしたらきりがないという理由からばかりではありません。【7】いちいちいいわけをせずにはいられないという気持ちが、つい私たちに、もっともっと大切なもののあることを忘れさせてしまうという、大きな危険があるからです。【8】もともと私たちにとってかんじんなことは、自分という人間がほんとうにどんな人間かということ、自分のしたことがほんとうにまちがっていなかったかどうかということであって、他人がそれをどう見るかということではないでしょう。【9】むろん、だれにしたって人からどう思われるかは気になることですが、あんまりそれを気にする人たちは、他人の目に自分がどううつるか、そればかりに心を使って、ほんとうの自分がどんな人間かということを、いつのまにかお留守にしてしまいがちです。【0】みなさんがだんだんおとなになると、他人の目によく見られたい、偉そうに見られたい、親切らしく見られたい、金持ちらしく見られたい……などと、いろいろ自分でないものに見られようとして、そればかり気にしている人間がじつに多いことを知ってくるでしょう。もちろん、そんな人間にろくな人はないのですが、当人も世間もそれにだまされている場合が少なくないのです。しかし、考えて見れば、立派な∵ハガネが多くの人からナマリだと思われても、それでハガネがナマリになってしまうわけではありません。また、ナマリがハガネだと思われたって、ナマリはどこまでもナマリではありませんか。ハガネをナマリだと思うのは、そうまちがえた者の恥です。また、ナマリがハガネだといわれても、むろん、ナマリの真の名誉にはなりません。
(中略)
 リンカーンがアメリカの大統領になってからのことで南北戦争中のことですが、「戦争指導委員会」という委員会の人たちが、リンカーンのしたことについて、重大なあやまちがあるといって彼を攻撃したことがありました。その時ある役人が、ちょうど問題になったことについて委員会のいいぶんをくつがえすだけの正式の証拠を持っていたので、ほんとうのようすを新聞に発表して弁明したいと思うが、いいでしょうかと、リンカーンにたずねました、すると、リンカーンはこう答えたというのです。
 「いや、いけない。少なくともいまのところはいけない。私に加えられているいっさいの攻撃にすべて目をとおしていたら、ましてそれにすべて答えたりしていたら、私のかんじんの仕事が休業になってしまう。私は自分の知っている最善のことをやっているのだ。自分にできる最善をつくしているのだ。そして私はそれを最後までやりつづけてゆくつもりでいる。もしも、その最後になって私が正しかったとわかれば、いま私に加えられている非難などは物の数でもなくなるだろう。また、もしもその最後になって、私がまちがっていたら、十人の天使がわたしを正しかったといってくれても、なんにもなりはしないからね。」

(吉野源三郎「八つの小さな話」より)