1. 【1】では「美」とは何か、どういうものか、これは大学で学ぶ「美学」というものがあるほどの大テーマですから
簡単には言えませんが、それが知りたくて読んだ岸田
劉生の『美の本体』(講談社学術文庫)という、むかしよく読まれた本があります。【2】その中で、「『美しい』と『きれい』とはちがうのだ」という一行だけが印象に残っています。その言葉のためにある本のようなものでした。「きれいなもの」もいいけれど、そのうち
飽きてきます。【3】いつまでも、あるいはいつ見ても心に
響くということは少ないでしょう。
2. その本が文庫本になっていたので、最近読み直して、
若いときに、こんな
難しいものをよく読んだなと思いました。そして「
絵描きは美の使徒である」という言葉に出会って少し苦笑しました。【4】それは自分でそう言い聞かせて、自分を
駆り立てているのだと、好意的に読むことはできました。
絵描きが「ぼくは美の使徒だ」と言うのは自由だけれど、他人が言うのでなければ
信憑性がありません。
3. 【5】今はどうか知りませんが、旧ソ連では、
絵描きであることが
尊ばれたそうです。「あの人は芸術家だから」とか「あの人はバレリーナだから、配給より少しよけいに食べさせてやらないとかわいそうだ」ということがあったといいます。【6】ニューヨークでも、アーチストのためのマンションというのがあります。職業はみんな平等なのに、アーチストと名のつく仕事についている人は
優遇されて安く住むところが用意されているのだそうです。
4. 【7】日本では、
優遇どころか、たとえば義務教育の教科の中から、美術の時間は無くなるか、もしくは減らされています。
国策として科学的発見を願う時代に、「美」などは
迂遠なことのように思われ、直接コンピューターの教育を
徹底すれば足りる、と考えられているようですが、わたしにはそう思えません。【8】科学的にも、芸術的にも「美しいものを
創造しよう」とする感性と
執拗な努力が両輪となって、新しい境地を開くのです。努力は金のためであったとしても、その努力を続け得るのは、美しいものに
魅せられる感性のた∵めです。【9】そんな意味で美術教育の時間が減らされたことは
惜しまれます。
5. 「『美しい』と『きれい』とはちがう」……これは
傾聴すべきことばです。「きれい」というのは「
汚い」の反対語ですが、「美しい」というのは
醜悪な部分までも
含んでいます。【0】たとえば、
グリューネヴァルトの作になる、コルマール(フランス)の教会の
祭壇画に
描かれたキリストは、目を
覆うほどのおできや
腫れ物で
覆われています。また金子光晴の「大
腐乱頌」という詩も、人間が死んで
腐乱していく、大自然の過程をたたえる詩として歌っています。このように一見したところは
醜悪なものでも、心を打たれずにはおられません。満開の桜も美しいけれど、秋の
枯れ葉の
褪せた色も美しい。「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは(桜の花は、満開のものだけを、月は満月だけを見るべきものだろうか、いやそうではない。)」(
兼好法師「徒然草」第一三七
段)というのはこのことです。
6. 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと、心を動かされることです。自然や芸術作品に、人の心を動かすだけの力が無くてはかないませんが、それを見る人の感性のありかたというものがあろうと思います。「きれい」なものに心を動かされても悪くはありません。しかしさらに深く働きかけて、見る者が「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです。つまり「美」という
厄介なものは、対象に備わっている美しさというより、むしろそれを見る自分の感性の責任でもあるといえます。
7. (安野光
雅「絵のある人生―見る楽しみ、
描く喜び―」(岩波新書)より。)