長文集  10月4週  ○では「美」とは何か(感)  hu2-10-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/09/10 19:36:12
 【1】では「美」とは何か、どういうもの
か、これは大学で学ぶ「美学」というものが
あるほどの大テーマですから簡単には言えま
せんが、それが知りたくて読んだ岸田劉生の
『美の本体』(講談社学術文庫)という、む
かしよく読まれた本があります。【2】その
中で、「『美しい』と『きれい』とはちがう
のだ」という一行だけが印象に残っています
。その言葉のためにある本のようなものでし
た。「きれいなもの」もいいけれど、そのう
ち飽きてきます。【3】いつまでも、あるい
はいつ見ても心に響くということは少ないで
しょう。
 その本が文庫本になっていたので、最近読
み直して、若いとき に、こんな難しいもの
をよく読んだなと思いました。そして「絵描
きは美の使徒である」という言葉に出会って
少し苦笑しました。【4】それは自分でそう
言い聞かせて、自分を駆り立てているのだ 
と、好意的に読むことはできました。絵描き
が「ぼくは美の使徒 だ」と言うのは自由だ
けれど、他人が言うのでなければ信憑性があ
りません。
 【5】今はどうか知りませんが、旧ソ連で
は、絵描きであることが尊ばれたそうです。
「あの人は芸術家だから」とか「あの人はバ
レリーナだから、配給より少しよけいに食べ
させてやらないとかわいそうだ」ということ
があったといいます。【6】ニューヨークで
も、アーチストのためのマンションというの
があります。職業はみんな平等なのに、アー
チストと名のつく仕事についている人は優遇
されて安く住むところが用意されているのだ
そうです。
 【7】日本では、優遇どころか、たとえば
義務教育の教科の中から、美術の時間は無く
なるか、もしくは減らされています。国策と
して科学的発見を願う時代に、「美」などは
迂遠なことのように思われ、直接コンピュー
ターの教育を徹底すれば足りる、と考えられ
ているようですが、わたしにはそう思えませ
ん。【8】科学的に も、芸術的にも「美し
いものを創造しよう」とする感性と執拗な努
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力が両輪となって、新しい境地を開くのです
。努力は金のためであったとしても、その努
力を続け得るのは、美しいものに魅せられる
感性のた∵めです。【9】そんな意味で美術
教育の時間が減らされたことは惜しまれます

 「『美しい』と『きれい』とはちがう」…
…これは傾聴すべきことばです。「きれい」
というのは「汚い」の反対語ですが、「美し
い」というのは醜悪な部分までも含んでいま
す。【0】たとえば、グリューネヴァルトの
作になる、コルマール(フランス)の教会の
祭壇画に描かれたキリストは、目を覆うほど
のおできや腫れ物で覆われています。また金
子光晴の「大腐乱頌」という詩も、人間が死
んで腐乱していく、大自然の過程をたたえる
詩として歌っていま す。このように一見し
たところは醜悪なものでも、心を打たれずに
はおられません。満開の桜も美しいけれど、
秋の枯れ葉の褪せた色も美しい。「花はさか
りに、月はくまなきをのみ見るものかは(桜
の花は、満開のものだけを、月は満月だけを
見るべきものだろう か、いやそうではない
。)」(兼好法師「徒然草」第一三七段)と
いうのはこのことです。
 「美しい」と感じる感覚は、一口にいうと
、心を動かされることです。自然や芸術作品
に、人の心を動かすだけの力が無くてはかな
いませんが、それを見る人の感性のありかた
というものがあろうと思います。「きれい」
なものに心を動かされても悪くはありませ 
ん。しかしさらに深く働きかけて、見る者が
「美しさ」を見つけ出すこともあるわけです
。つまり「美」という厄介なものは、対象に
備わっている美しさというより、むしろそれ
を見る自分の感性の責任でもあるといえます


 (安野光雅()「絵のある人生―見る楽し
み、描く喜び―」(岩波新書)より。)