1. 【1】最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか
専門家というか、プロフェッショナルが
敬遠され始めた。なぜそうなったか
分析はしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。【2】何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな
価値観がはびこっています。
2. たとえば
審議会などに参加しても、
普通の人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。【3】その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報
源に基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。【4】またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを
頻繁に見かけます。
3. 本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。【5】プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして
把握しています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ
危険きわまりない。【6】もっとも、最近の政治家も
大衆に
迎合するばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの
我が国は、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
4. 【7】ここでいうアマチュアとは、その主張の
根拠がほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている
範囲のことをすべてだと
思い込み、あたかもそれが
正論であるかのように、堂々としゃべる。そんな
風潮が目につきすぎます。
5. 【8】結局、そういう人たちには
謙虚さがないということです。実際のところはよく知りませんが、
私の知っている
範囲はこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを
拡大して、人類
一般の
普遍的な話としてどうのこうのというような
議論までするわけです。【9】こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。∵
6. プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。【0】自分の頭できちっと考えることができる、しかもその
座標軸は古今東西の歴史から、芸術、
哲学に通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の
尺度を持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
7.
秀才と
呼ばれ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる
秀才というのは
所詮、
与えられた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
8. 戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初から
我がある、などという
誤った前提に立ったために、教育と
呼べるような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。
9.(
松井孝典『コトの本質』(講談社))