長文集  4月1週  ○こうしてこれまで人間は  ha2-04-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/02/09 15:14:42
 【1】こうしてこれまでに人間は、平和の
ための備えをし、平和のためと称する戦争を
始め、いつしかそれが人間から平和を奪うた
だの戦争になっていた、という経験をしばし
ばしてきました。【2】備えをすることが全
く不要だとは言えないでしょうが、平和とい
うものが相手のある問題、他者との関係であ
る以上、備えさえあれば平和でいられるとい
う単純なものではないことも、次第に明らか
になってきたのです。
 【3】加えて、平和についての思索が進む
につれ、こういう別の問題も意識されるよう
になります。すなわち、戦争さえなければそ
れで平和と言えるか――。
 たとえば、多くの人々が極度の貧困にさい
なまれ、飢えに苦しんでいるような社会は平
和だろうか。【4】また、人種や性による差
別が根強く残り、女児の就学率が男児のそれ
よりもいちじるしく低いような社会は平和だ
ろうか。あるいは、字が読めないばかりに十
分な社会参加ができず、自分たちが不利益を
こうむっていることさえ気づかない人がたく
さんいる社会は平和か。そういう問題です。
 【5】一九六〇年代も終わる頃、それらも
また暴力と呼ぶべき だ、と主張する学者が
現れました。ノルウェーのヨハン・ガルトゥ
ンクという人です。【6】いま述べたさまざ
まな問題は、誰かが誰かを殴ったり殺したり
するという意味での暴力ではないが、みずか
ら望んだわけではない不利益をこうむる人は
確実にいるのだから、それもまた別のかたち
の暴力と呼ぶべきだという考え方で、その種
の「暴力」に「構造的暴力」という名前をつ
けました。【7】これに対し、人を殴ったり
殺したりするような種類の暴力を「直接的暴
力」と呼びます。
 「構造的」という言葉づかいはあまりなじ
みのないものかもしれませんが、おおよそ次
のような意味です。たとえば、一つの社会の
中で、一方には巨額の富を占め、飽食してい
る人がいる。【8】もう一方にはいくら働い
ても十分な収入が得られず、あるいは職さえ
も得られず、十分な食糧さえ得られない人が
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いる。それが当人たちの能力ややる気の問題
ではなく、富の配分の仕組みが不適切である
ことの結果であるとしたなら、また、特定の
人種や性が原因でなかば自動的に貧困や飢餓
の中に閉じ込められているとしたなら【9】
―∵―それは社会構造が原因で生み出されて
いる暴力と呼ぶほかないのではないか。富め
る人々が貧しい人々を殴りつけて飢えさせて
いるのではなく、したがって加害者は特定で
きないが、社会構造の被害者はいるという意
味での「暴力」なのではないか。【0】
 この構造的暴力論は、それまでの平和論の
見落としていた点を浮き彫りにし、新たな地
平を開くものでした。それまでは「戦争のな
いこと」が「平和」だとされていたのに対し
、戦争がなくとも「平和ならざる状態」はあ
る、という視点を理論化するものだったから
です。その背後には、平和とは何より社会正
義の問題なのではないか、という問題意識が
あります。人間が自分の責任によらないこと
で差別され、排除され、悲しみ、傷つくのは
平和とは言えないのではないか、という問題
意識です。
 平和研究の課題は一挙に広がりました。戦
争や武力紛争や軍拡が主題だった(少なくと
もそう信じられていた)のに対し、貧困や開
発や人権や平等といった、いわば非軍事的な
社会問題に関心を広げていったのです。いま
でも平和研究といいますと戦争や軍拡の研究
ですねと言う方が少なくありませんが、けっ
してそうではありません。それ以外の問題に
対する関心も高く、その中にはジェンダーと
か環境とかいった、今日的な問題も含まれま
す。それは単に「研究対象を広げた」という
ことではありません。暴力の意味が変わり、
平和の意味が変わったからそれらの問題が必
然的に平和研究に入り込んできた、というこ
となのです。

(最上敏樹『いま平和とは』)