長文 4.1週
1.【長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。】
2.【1】「
大丈夫、寒くない、寒くないぞ。」
3.
僕はドアを開けて外へ飛び出した。
4. もうすっかり春とはいえ、半ズボンはさすがに寒い。しかし、これに負けていてはいけないのだ。
僕には自分を
鍛え直して健康になるという、大きな目標があるのだから。
5. 【2】
僕は体が弱い。すぐに
喉が
痛くなって熱が出るし、
お腹を
壊すし、貧血になる。苦しい思いはたびたびしてきたが、今までそれで
困ったことはなかった。周りもみんな気をつかって、助けてくれていたからだ。
6. 【3】だが去年、
僕は高熱を出してしまい、林間学校に参加することができなかった。その旅の様子は、みんなから聞いた話と、
撮られた写真でしか
僕には分からない。みんな最高に楽しそうな笑顔で写真に写っている。
7. 【4】
誰にからかわれたわけでもなかったが、自分がみじめで
悔しい思いがした。だから
僕は一念発起したのだ。今年は日光への修学旅行がある。それには絶対に参加するのだ、と。
8. そのため、手始めに
僕は半ズボンをはいて通学し、寒さに慣れることにした。
9.【5】「
大丈夫、
恥ずかしくない、
恥ずかしくないぞ。」
10.
僕は自分に言い聞かせて、ドアを開けて教室に
飛び込んだ。見慣れない
僕の半ズボン
姿に、友人たちは実にいろいろな反応をした。「えっ。」という表情になる人もいたし、「なに、その格好。」と笑う人もいた。【6】しかし、そのくらい、なんてことはない。これは目標達成のための、
僕なりの努力なのだ。笑いたければ笑えばいいという感じである。
11. そもそも、体育のときはみんな短パンで運動しているのだ。
私服の半ズボンだけ
恥ずかしがることはないはずだ。【7】
僕はいつもどおりに
挨拶をして、席に
座った。
僕の
覚悟が伝わったのか、友達もすぐに何も言わなくなった。∵
12. 目標のためなら、人間は
大胆な行動がとれる。むしろ、
大胆な発想や決断なくしては人間の進歩はないと言っていい。【8】そう考えると、
僕の似合わない半ズボン
姿だって、まるでピカソの芸術やエジソンの発明のように
輝かしいものではないだろうか。
13. この前の朝礼のとき、校長先生が「寒い日が続きますが、今朝、
私の横を元気に
駆け抜けていった生徒が半ズボンで……」という話をした。【9】それは
間違いなく、
僕のことだ。やはりこれは
誇っていいことなのだと実感した。
僕はこれからも半ズボンをはき続けていこう。
14.「
大丈夫。寒くないぞ。」
15.
僕は、今日も半ズボン
姿で元気に学校に向かう。【0】
16.(言葉の森長文作成委員会 ι)∵
17. 【1】こうしてこれまでに人間は、平和のための備えをし、平和のためと
称する戦争を始め、いつしかそれが人間から平和を
奪うただの戦争になっていた、という経験をしばしばしてきました。【2】備えをすることが全く不要だとは言えないでしょうが、平和というものが相手のある問題、他者との関係である以上、備えさえあれば平和でいられるという
単純なものではないことも、次第に明らかになってきたのです。
18. 【3】加えて、平和についての
思索が進むにつれ、こういう別の問題も意識されるようになります。すなわち、戦争さえなければそれで平和と言えるか――。
19. たとえば、多くの人々が極度の
貧困にさいなまれ、
飢えに苦しんでいるような社会は平和だろうか。【4】また、人種や性による差別が根強く残り、女児の
就学率が男児のそれよりもいちじるしく低いような社会は平和だろうか。あるいは、字が読めないばかりに十分な社会参加ができず、自分たちが不利益をこうむっていることさえ気づかない人がたくさんいる社会は平和か。そういう問題です。
20. 【5】一九六〇年代も終わる
頃、それらもまた暴力と
呼ぶべきだ、と主張する学者が現れました。ノルウェーのヨハン・ガルトゥンクという人です。【6】いま述べたさまざまな問題は、
誰かが
誰かを
殴ったり殺したりするという意味での暴力ではないが、みずから望んだわけではない不利益をこうむる人は確実にいるのだから、それもまた別のかたちの暴力と
呼ぶべきだという考え方で、その種の「暴力」に「構造的暴力」という名前をつけました。【7】これに対し、人を
殴ったり殺したりするような種類の暴力を「直接的暴力」と
呼びます。
21. 「構造的」という言葉づかいはあまりなじみのないものかもしれませんが、おおよそ次のような意味です。たとえば、一つの社会の中で、一方には
巨額の富を
占め、
飽食している人がいる。【8】もう一方にはいくら働いても十分な
収入が得られず、あるいは職さえも得られず、十分な
食糧さえ得られない人がいる。それが当人たちの能力ややる気の問題ではなく、富の配分の仕組みが不適切であることの結果であるとしたなら、また、特定の人種や性が原因でなかば自動的に
貧困や
飢餓の中に
閉じ込められているとしたなら【9】―∵―それは社会構造が原因で生み出されている暴力と
呼ぶほかないのではないか。富める人々が貧しい人々を
殴りつけて
飢えさせているのではなく、したがって加害者は特定できないが、社会構造の
被害者はいるという意味での「暴力」なのではないか。【0】
22. この構造的暴力
論は、それまでの平和
論の見落としていた点を
浮き彫りにし、新たな地平を開くものでした。それまでは「戦争のないこと」が「平和」だとされていたのに対し、戦争がなくとも「平和ならざる状態」はある、という
視点を
理論化するものだったからです。その
背後には、平和とは何より社会正義の問題なのではないか、という問題意識があります。人間が自分の責任によらないことで差別され、
排除され、悲しみ、
傷つくのは平和とは言えないのではないか、という問題意識です。
23. 平和研究の課題は一挙に広がりました。戦争や武力
紛争や
軍拡が主題だった(少なくともそう信じられていた)のに対し、
貧困や開発や
人権や平等といった、いわば非軍事的な社会問題に関心を広げていったのです。いまでも平和研究といいますと戦争や
軍拡の研究ですねと言う方が少なくありませんが、けっしてそうではありません。それ以外の問題に対する関心も高く、その中にはジェンダーとか
環境とかいった、今日的な問題も
含まれます。それは単に「研究対象を広げた」ということではありません。暴力の意味が変わり、平和の意味が変わったからそれらの問題が必然的に平和研究に
入り込んできた、ということなのです。
24.(最上
敏樹『いま平和とは』)
長文 4.2週
1. 【1】里山を歩いていると何人ものハイカーとすれちがいます。それぞれの人は何かの楽しみを求めて里山を
訪れているのです。遠い
故郷のかわりに、ダイエットのため、おいしい空気を
吸うため、写真をとったりスケッチをするため、バードウォッチングのため、つりのため、などさまざまでしょう。【2】それぞれの目的を気持ちよく、楽しく達成させてくれるのが里山の景観であり、それを構成する野生生物を中心とした自然です。
2.
奥武蔵の里山を
訪れたときのことです。秋の終わりで道ばたの草もほとんど
枯れていました。【3】せまい谷間に農家が点々とあり、だんだん畑がきれいに整備されています。雑木林やスギ林もきれいに手入れされています。たいへん美しい景観です。しかし、村のあちこちに立てられた
看板が目ざわりです。【4】
看板には、「
駐車禁止」とか「ゴミを
捨てるな」とか、「
私有地につき立ち入り禁止」とか、「山野草の花をつむな」とか、そして「山野草の採集は
窃盗罪」とまで書いてあります。何か
殺伐としています。里山をきれいに
維持している村の人びとにとって、ハイカーのマナーの悪さは目にあまるのでしょう。
3.(中略)
4. 【5】今、美しく
維持されている里山は、必要なてまひまをすべて山里の人びとの
善意に負っています。たまに
訪れる私のようなハイカーが里山を楽しむとき、山里の人びとの
善意にただあまえているだけです。また、里山には治山、治水という機能があります。【6】山が
荒れて
土砂を川に流しこみ、中流や下流に水害をおこさせないようにするはたらきです。おいしい水を川へゆっくり
供給するという機能もあります。
5.
私は、里山を
私有財産という
枠組みのなかだけで考えていたのでは守れないと思います。【7】都市に
暮らす人びとが、大切な里山を
維持してもらえるように山里の人びとに対して相応の
負担をするべきではないかと考えています。それは金銭的な
補助もあるでしょうが、人手が不足している里山で下
草刈りなどの世話をするボランティア活動であってもいいと思います。【8】里山は人間によってつくら∵れ、
維持されてきた自然だということを考えると、都市の人びとがここを
訪れて仕事をする後者のほうがよいと思いますが。これに行政側が資金的な
援助をすればよいのです。
6. 【9】早春になると里山のウグイスは町までおりてきます。このころには
立派に「ホーホケキョッ」とさえずることができるようになっています。すこし前まで東京の町でもウグイスのさえずりをたくさんきくことができました。【0】最近では都会のウグイスが少なくなってきたような気がします。都会の緑が少なくなってきたことが原因でしょう。それに、緑があっても、かなりとびとびになってしまったことも関係します。ウグイスはしげみを好む野鳥だからです。鳥ですから空をとべますが、体をむきだしにするのは不安なのでしょう。これでは都会にやってくることはできません。
7. 雑木林に生活する野生動物たちのなかには一生をそこで終えるものもいますが、一時期だけ
訪れるものもいます。一日の間にある雑木林から別の雑木林へと移動しながら食べ物を食べるサルのような動物もいます。里山と平地を行ったり来たりするウグイスのような動物もたくさんいます。開発が進む里山では、新しい道路がつくられ、野生動物たちが
訪れる林が分断されることが多くなりました。このため、里山の野生動物の交通事故がめだってふえているようです。「シカに注意」とか、「タヌキに注意」といった道路標識を見かけることが多くなっています。これまたとうぜんですが、シカやタヌキにはこの道路標識は読めません。人間の側の注意と
配慮がもっと必要です。野生動物たちにとっていちばんいいのは緑のコリドー(
回廊)です。野生動物の体をかくしてくれる緑の
廊下です。緑のコリドーとは人間が立ち入らないことにします。野生動物たちは安心して緑のコリドーを伝わって移動できます。工事費が多少高くついても、道路の一部を地面より下のトンネルなどにして緑のコリドーをつくる工夫が必要でしょう。
8. (
山岡寛人『自然保護は何を保護するのか』
長文 4.3週
1. 【1】読書の楽しみは一人でできる楽しみです。
碁を打つには相手がいる。野球を楽しむには自分の他に少なくとも十七人の賛同者が必要でしょう。そういう楽しみは、いつでもどこでも、というわけにはゆきません。【2】道具や、設備や、場合によっては
途方もなく広い場所がなければ、どうにもならない。読書の方は、設備も要らず、どこかへ出かけるにも
及ばず、相手と相談もせず、気の向くままにいつでもどこでもできます。【3】
蛍の光
窓の雪というのは、貧富の差が大きく、灯火用の油の
値段が高すぎたむかしの話です。今は電気がいたるところにあるので、
誰でも、望めば昼となく夜となく好きな本を読むことができるでしょう。こんな便利な
娯楽はめったにありません。
2. 【4】しかも、当方の体力とはほとんど関係がない。老人
子供、病人でも、多くの場合には、それぞれ読んで楽しめます。
疲れているときでも、易しい
疲れない本を選びさえすればよい。しかもカネがかからない。【5】本が高くなったといっても、どこかの「ファミリー・レストラン」で二、三度食事をする
値段で、
大抵の本は買えます。それでも買えないほど高い本は、公共図書館にあり、そこから借りればタダですむでしょう。こんなに安くて便利な楽しみを知らぬ人がいるとすれば、その気の毒な人に同情しなければなりません。
3. 【6】「オーディオ・
ヴィジュアル」の情報が、活字情報を
駆逐する(追いはらう)時代が来た、という人がいます。「
ヴィジュアル」とは感覚的ということで、たとえば
肖像写真が一人の男または女の顔を示すのは「
ヴィジュアル」な情報です。【7】しかしその他の
誰とも
違う顔の
特徴を言葉であらわすのは容易なことではありません。
肖像写真は、活字の何十ページ、いや、おそらく何百、何千ページに相当する情報を一挙に伝えることができます。【8】しかしその男または女が、昨日はソバを食べた、明日はウドンを食べるだろう、という活字の一行に相当する情報を伝えることはできません。
肖像写真は人物の顔の現在であって、過去も、未来も、表現できない。【9】「
ヴィジュアル」な情報と言葉による情報(そのひとつが活字情報)とは、
互いに他を
補うので、一方が他方を
駆逐するので∵はないし、一方が他方に代わるのでもありません。言葉は耳で聞くこともできます。耳で聞くのが「オーディオ」。【0】活字の文章は、声に出して読んでテープレコーダーに記録することができるでしょう。しかしそうすることが便利な場合と、不便な場合があります。活字の文章でなく音楽の記録ならば、あきらかにテープレコーダーが便利な道具です。六法全書をテープレコーダーに
吹き込むのは、あまりに不便だから
誰もしないことです。要するに活字時代の後に「オーディオ・
ヴィジュアル」の時代が来たのではなく、活字情報に「オーディオ・
ヴィジュアル」の情報が加わったというだけのことです。どちらも楽しめばよいので、どちらか一方だけを選ぶ必要はまったくありません。
4. それでは読書そのものに、どういう種類の楽しみが
伴うでしょうか。それは人により、本によって
違うでしょう。もし共通の楽しみがあるとすれば、それは知的
好奇心のほとんど無制限な満足ということになるかもしれません。世の中には
好奇心を
刺激する対象が数限りなくあるでしょうから、対象を移して、
好奇心の満足を広げてゆくこともできるでしょう。読書の楽しみは無限です。時間をもてあましてすることがない、といっている人の心理ほどわかりにくいものはありません。人生は短く、面白そうな本は多し。一日に一
冊読んでも年に三百六十五
冊。そんなことを何十年もつづけることは不可能で、一生に一万
冊読むのもむずかしいでしょう。それは、たとえば東京都立中央図書館の
蔵書一五〇万
冊以上の一%にも足りないということです。面白そうな本を読みつくすことは
誰にもできないのです。すべての本は特定の言語で書かれています。日本で出版される大部分の本の場合には、日本語です。本を
沢山読むということは、日本語を
沢山読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと
魅力を知るということもあるでしょう。
私は本を読んで日本語の文章を楽しんで来ました。それも読書の楽しみの一つです。
5.
6. (
加藤周一 「読書術」による)
長文 4.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2.「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
3. ヨウはかまどに
薪をくべているるい
婆さんに
蒲団の中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい
婆さんはもやのたちこめる暗い土間の
隅にしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
4.「春の夢でも見たんかや」
5.と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた
孫娘に、
6.「ああ、もうとっくに
日向ッ原じゃ春の歌がはじまっとるぞ」
7.とうれしそうに笑いかけた。
8. ヨウはおおきな目をかがやかせて、
蒲団を
跳ね上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ
寝間着のまま外へ走り出した。
9.「こらっ、顔を
洗ってから行かんか」
10.
背後で聞こえる、るい
婆さんの声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる
裏手の
段々畑までの
畔道をかけ上がって行った。
11. 昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように
跳ねながら走る。イモ畑を
越え蜜柑の木の下を
抜けて、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
12. 半月余り続いた雨が上がった
瀬戸内海は無数の
波頭が西へむかう鳥の群れのように
踊っていた。ヨウは
肩で息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって
突き出した
皇子岬、左手にとんがり
帽子のように頭を見せる
岬の白い
岩肌が草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
13.「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
14. ヨウは大声で
叫んだ。
15. 日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に
咲いていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに
映った。
16.「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」∵
17. ヨウはその場で
飛び跳ねると、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に
抱きついた。モグは
喉を鳴らしてから、ヨウの身体を
釣り上げるように首を回した。
18.(
伊集院静「機関車先生」)∵
19. 【1】最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか
専門家というか、プロフェッショナルが
敬遠され始めた。なぜそうなったか
分析はしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。【2】何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな
価値観がはびこっています。
20. たとえば
審議会などに参加しても、
普通の人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。【3】その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報
源に基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。【4】またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを
頻繁に見かけます。
21. 本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。【5】プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして
把握しています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ
危険きわまりない。【6】もっとも、最近の政治家も
大衆に
迎合するばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの
我が国は、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
22. 【7】ここでいうアマチュアとは、その主張の
根拠がほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている
範囲のことをすべてだと
思い込み、あたかもそれが
正論であるかのように、堂々としゃべる。そんな
風潮が目につきすぎます。
23. 【8】結局、そういう人たちには
謙虚さがないということです。実際のところはよく知りませんが、
私の知っている
範囲はこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを
拡大して、人類
一般の
普遍的な話としてどうのこうのというような
議論までするわけです。【9】こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。∵
24. プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。【0】自分の頭できちっと考えることができる、しかもその
座標軸は古今東西の歴史から、芸術、
哲学に通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の
尺度を持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
25.
秀才と
呼ばれ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる
秀才というのは
所詮、
与えられた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
26. 戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初から
我がある、などという
誤った前提に立ったために、教育と
呼べるような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。
27.(
松井孝典『コトの本質』(講談社))
長文 5.1週
1.【長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。】
2. 【1】パーツに接着
剤を
塗り、
慎重に土台と組み合わせる。よし、これで完成だ。
3.
僕が集めているものは、プラモデルである。プラモデルといっても、「ガンプラ」のようなキャラクターモデルとは一味
違う。
僕が作っているのは「
城」の
模型なのだ。
4. 【2】
白鷺城とも
呼ばれる
姫路城、織田信長の天下
布武の
象徴である安土
城、豊臣
秀吉の
大阪城、……たくさんの
城を組み立ててきた。
5.
普通のプラモデルは
簡単に作れて、完成させたあとに遊ぶことが目的の「おもちゃ」の一種という感じだが、
城の
模型はそうではない。【3】作り終わってしまったら、
飾って
眺めるしかすることはない。つまり、作ることそのものに意義があるのだ。おもちゃというより工作に近いかもしれない。
6.
僕も昔は、車やロボットのプラモで遊んでいた。【4】しかし、学校の授業で日本の歴史を学び、
武将の伝記などを読むようになって、がぜん戦国時代に興味を持つようになった。
7. そこで去年、初めて
城のプラモデルを買ってみた。今までと全く
違う買い物に、店のおじさんは、ほうっという顔をして
驚いた。
8.【5】「これは作るのが
難しいよ。接着
剤を使うけど、持っているの。」
9. そう心配してくれたが、
僕は力強く、「
大丈夫です」と
宣言した。
10. 確かに初めは
悪戦苦闘したが、すぐに作り方のコツが
飲み込めた。
11. 【6】今では、
本棚の上にたくさんの空き箱が積み上がっている。この箱を材料にして、さらに
巨大な
城の工作が作れそうなほどだ。
12. 特に気に入っているのが、小田原
城のプラモデルである。【7】
姫路城や安土
城より知名度が低いせいか、
模型としての出来栄えはもう一歩なのだが、それでも
僕にとってはいちばんの
名城である。なぜなら、この
城は今でも地元の
神奈川県に残っていて、
僕自身も実際に行ったことがあるからだ。∵
13. 【8】
城の中にはいろいろな
展示物があった。戦国
武将の
甲冑や
槍を見られたことは感動的だったが、外国からの観光客に分かりやすくするためか、
忍者が使う
手裏剣が「シュリケン」などとローマ字で書かれていたのには笑ってしまった。
14. 【9】自分の手で組み立てた小田原
城を
眺めていると、
天守閣から見た景色が思い出される。意識が
模型の
城の中に入っていき、当時の自分と重なるような気持ちがする。
15.
僕はさまざまな
城のプラモデルを集めることで、その
城が築かれた
背景や歴史に
詳しくなった。【0】それぞれの
城の
特徴と、その
違いを
探究していくことはとても楽しい。それに手先も器用になって、クラスでも
頼りにされることが多くなった。
16. 何かを集めるということは、その物事に興味を持ち、理解を深めていくということだ。集めた物自体も大切だが、それを通じて手に入れた知識や技術が、人間にとって何より大切な財産になるのだと思う。
17.(言葉の森長文作成委員会 ι)∵
18. 【1】成長の速い
子供をタケノコのようにすくすく
伸びるといい、タケノコは昔から成長が速いものの
代名詞とされてきたが、実際にその成長速度を測った人はあまりいないだろう。【2】竹博士として有名な上田
弘一郎氏(京都大学
名誉教授)によると、マダケのタケノコで一日に一二一センチメートル、モウソウチクのタケノコで一日に一一九センチメートルも
伸長した例があるというから、その成長速度はすさまじいものである。【3】とくに昼間の
伸長は速く、一時間に八〜一〇センチメートルも
伸びることがあるというから、これを
換算すると一分間に約一・五ミリメートル
伸びることになり、タケノコは、見る見るうちに
伸びるものだといってよい。【4】雨後のタケノコともいわれるように、雨の
降ったあとなどは、とくに数多くのタケノコがにょきにょきと現われてくるのであって、そのようなとき、手入れのゆきとどいた竹やぶの緑の中に、
茶褐色の皮をかぶったタケノコが無数につき立っているありさまは実にみごとなものだ。
19. 【5】なぜこれほど多くのタケノコが、これほどすさまじい勢いで成長することができるのであろうか。それは、地下に張りめぐらされた無数の
地下茎から多量の栄養が
供給されるためであり、また、早くに成長することを止めた親竹が光合成でかせぐ栄養のすべてを、タケノコに
供給するためだといってよいだろう。
20. 【6】竹の根を
掘りおこした経験のある人は、
地下茎がぎっしりと張りめぐらされているのを見て
驚かれたことと思うが、そのありさまは実際に
掘ったことのない人には、とても想像できないものである。【7】上田氏らの調査では、モウソウチク林で、一平方メートルあたり一一メートル、マダケ林では一平方メートルあたり一九メートルもの
地下茎が張りめぐらされていたという。これらの
地下茎は、たいへん太いものであるから、竹林の土の中には
地下茎がぎっしりとつまっているといっても過言でない。【8】四〜五月に出てきたタケノコは、
地下茎に
蓄えられた栄養と親竹から
供給される光合成産物を利用して急速に
伸びるが、五〜六月には早ばやと
伸長を終わ∵り、夏の間は
伸びることなく、つぎつぎと葉を開いて光合成を行う。【9】この時期には、その年に成長した竹だけでなく、前の年あるいはそれ以前に地上に現われた竹も、ほとんど成長することなく光合成で
獲得する栄養分をすべて
地下茎に送るのであるから、
地下茎はどんどん大きくなるばかりでなく、栄養をたっぷりと
蓄えることができる。【0】植物の成長にとっても好都合な夏の間、竹はさんさんと
降りそそぐ夏の太陽のエネルギーを利用してつくる光合成産物を、ほとんど地上部の成長についやすことなく、せっせと
地下茎に
送り込んで
蓄えている点に注目してほしい。このために、
翌春に出るタケノコがすくすくと成長できるのである。
21.(中略)
22. ふつう、一本の
若竹を育てるのに五本以上の親竹の協力が必要だといわれているのに、出てくるタケノコの数はそれよりもはるかに多い。そのため、タケノコ社会でもはげしい
生存競争が演じられることになるが、このとき竹は、弱者を
遠慮なく切り捨て、すべての
子供に平等に栄養を
与えて多数の栄養不全の
子供をつくるようなことはしない。人間社会ではとうていまねのできない決断である。
23.(中略)
24.
私たちが
若いタケノコをとって食用に
供するのは、このような
犠牲者の数を減らすのに役立っており、逆にいえば、
私たちはトマリタケノコを
若いうちにとって食べていることになる。このように考えると、タケノコをとることは、その量さえ多すぎなければ竹林の成長を
妨げることにはならないのであるから、
私たちは安心して、タケノコを食べることができる。
25.
26. (
瀧本
敷「ヒマワリはなぜ東を向くか」より)
長文 5.2週
1. 【1】少年のころの桜はもっと長く
咲いていた感じだが……と春ごとに同じ思いをくり返してきたが、今年の桜は久しぶりに長かった。歩いて
通勤できるようになって、花を見る目のほうに少年時代ののどかさがもどってきたせいにちがいない。
2. 【2】「桜前線」という言葉があるが、この言葉はいただきかねる。季節感はやはり「※1梅一輪ほどの」とか「※2風の音にぞ」といった、
微小感覚のものであり、大きく
見渡すといったところで、「※3
柳桜をこきまぜて」という程度なのであって、
巨視的に、日本列島全体を見下ろすスケールは、どうにも花見のさまでないと思う。【3】つまるところ、昔からある「花便り」のほうが、はるかに風情に富むのである。「つぼみふくらむ」「ちらほら
咲き」「八分
咲き」「散り初め」「落花
盛ん」「散り果て」。花便りの言葉も、
微小感覚を表し分けて、まことに風情に富んでいる。
3. 【4】ところが、散り初めのころのある日、枝を
離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表す言葉がないのに気がついた。風が
一斉に散らす花には、「
花吹雪」「散り交う」という言葉がある。【5】だが一ひらまた一ひらと、自分の重みだけで木を
離れ、○○○てゆく花びらのありさまをいう
動詞は、
簡単には見つからない。具体的に言えば、右の○○○印を「散る・落ちる・流れる・こぼれる」などで
埋めてみても、ぴたり、とはゆかないのである。【6】
肌に感じるほどの風はなく、空は青く晴れわたり、いましも枝
離れした花びらは、空気がそこにあるのだということを気づかせる程度の支えを受けて、静かに
漂うがごとくにしつつ、しかし確かに地表へ
降りてゆく。それは「
漂う」でもなく、もとより「
降りる」でもない。
4. これと似たような光景を、
私は秋の信州で見たことがある。【7】からまつのこまやかな葉が、同じように自分の重みだけで枝を
離れ、金色の光をひるがえしながら、音もなく地表に
降り積むのであった。からまつというのを見るのが、そもそも初めてであったから
私はその美しさと
静寂に息をのみ、林の中にたたずみつくした∵のを覚えている。【8】そしてそれを日記に書こうとして、「からまつの葉が」とだけ書いてたちまち言葉につかえたものだ。青年時代の経験だが、今なおあの光景を表す言葉を発見できないままである。
5. 桜の花びらと、からまつの葉と、自然はついに言語の
及びえないものなのであろうか。【9】何をそうめんどうな、「
降る」でよいではないかとも思うのだが、雪よりも長く時間をかけて、
浮かびながら
降りてゆく一
枚一
枚の、数量と重量についての
微小感覚が、「
降る」には欠けていてもどかしい。【0】
6. 花便りのいろいろの言葉を作り出し、育ててきた日本語だから、
私のまだ知らないところに、あの美しさを表す言葉があるかもしれない。もし日本語にそれがなければ、それは日本語の
語彙の貧弱を意味すると、二十年前と同じことを考えさせられた。日本語になくてはならない言葉のように思えるのだが。
7.
8.(
渡辺 実氏の文章による)
9. ※1梅一輪ほどの…
嵐雪の句。「梅一輪一輪ほどの
暖かさ」を指す。
10. ※2風の音にぞ…
藤原敏行の和歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」を指す。
11. ※3
柳桜をこきまぜて…素性法師の和歌「
見渡せば
柳桜をこきまぜて都ぞ春の
錦なりける」を指す。
12. ※4
語彙…言葉の総体。
長文 5.3週
1. 【1】日本語は、いままで日本民族によってしか使われたことのない内輪の言語、つまり部族言語です。どこの言語も初めは部族言語なのですが、それが外国に広まりだすと、外の
視点が入ってきて言語の
刈りこみが行われてくるわけです。【2】その
刈りこみがはなはだしいのが英語です。英語というのは、外の
視点と内の
視点が合作でつくり上げためずらしい言語なのです。その点、ロシア語などは、多分にまだ内部の
視点だけの言語ですが、それは国際
普及の度合いが少ないからです。【3】日本語などはその最たるもので、これまで外側の目というのはまったくなかった。
2. 日本人は、自分の国の言語を国語と言ったり日本語と言ったりしますが、国語、日本語の対立は実はこの問題と関係があるのです。【4】国語として日本人が自分の言語を見るときは、完全に内側の
視点で見ているのです。みんな、日常の文法などは知っているという前提で、日本語の文学とか詩が
論じられる。つまり基本的知識のある者同士の話なのです。【5】ところが、外国人は、ことばのきまりも発音の仕方も知らないで日本語を習うのですから、外の
視点しか持っていないということです。
3. そして、
私たちの母語である日本語は、いま
徐々に外の
視点を加味して整理される芽生えが出てきています。【6】もし外国人が日本語を学ぶ勢いがこのまま五十年、百年とおとろえなければ、日本語も大きく変わると思うのです。それは、英語が四百年の間にまったく変わってしまったのと同じで、日本語が国際
普及する
に従って、外の人の
影響力が国内の日本語にもおよんでくる。【7】ただ、だからといって、日本本来の内側の
視点は
閉鎖社会のなごりだからやめるというのは、大きなまちがいです。英語でさえも、いまだにイギリス人しかわからない、
彼らだけの内側の
視点の部分があるのです。その外側に、人工的に
刈りこまれた英語の部分が付加されてきたということなのです。
4. 【8】日本語はまだこの部分が少ない。その
証拠に、日本語の字引はすべて国語辞書です。日本語の辞書は、ほとんどすべて日本語を内側の
視点からしか見ていません。ですから、日本語国際
普及の一つの大きな課題は外の
視点を取り入れた日本語辞典をつくることで∵す。【9】これは、一つの大事な国家的事業であり、個人ではできないことですから、国際交流基金などが中心にやるべき仕事だと思います。
5. 日本語は、外国人によって学ばれ、使われた経験がないために、植木屋を十年も入れなかった庭みたいでめちゃくちゃに枝がのびているという状態です。【0】多くの西洋の言語は、
ヴェルサイユ宮殿の庭木のように、整然と
刈りこまれ、人工的な手入れがされているのです。かつて大学の先生をやめてフランスで日本語を教えていた学者が、ことごとにフランスには整然たる文法があるのに、日本語には文法がないと言ったのも、そのへんの問題だと思うのです。
6. フランスでも、十六、十七世紀のフランス語は、植木屋の手の入らない日本語みたいな状態にありました。それを研究所をつくり、一種の理念にもとづいた人工フランス語をつくって、それを世界
普及のフランス語の中心にしたわけです。だから、それはフランス人にとっても学ばなければならない「外国語」でした。高等教育を受けたフランスの知識階級が話すフランス語と
庶民が話すフランス語がいまだにちがうのは、
庶民はお金をかけてフランス語を勉強していないからなのです。外国人がフランス語を学ぶのが易しいのは、人工的に整理されたフランス語だからです。それを文法と、かの学者は
呼んだわけです。
7. 日本語にはそれがないのです。日本語は、明治からいままで百年の間におどろくほど変わりました。戦後の四十年間でもどんどん変わっているという野放図な自然言語なのです。これは、外国に日本語はこれですよと教えるときには大きな
障害になるわけです。ですから、日本は、これからどうやって日本語を
刈りこんでいったら、国際
普及の日本語になるかということを考えなければならない。そして、これは国家的な事業として相当大きな研究課題としてお金をかけ、
真剣に取り組まないと、どうにもならないと思うのです。
長文 5.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. ぼくの小さいころは、買い物をするのに定価のないことが多かった。店の人と世間話から始まって、
値切るやりとりがあった。そして、自分が
値をきめたような気分が少しはあって、その
値段にチョッピリ自分の責任があった。
3. もちろん、ドジだと高く買わされる。要領のよいのがトクをする。同じものを買うのに、高く買うのもあれば、安く買うのもいる。まったく、「不平等」だった。
4. このごろでは、共同
購入などと、代表者にまかせるのまである。そのかわり、みんなが同じ
値段で買う。国家と生命の売買をやるのだって、代表者にまかせて、みんなが同じ
値段でやるのじゃないかと、時節がら少々不安である。
5. ドジを重ねて、要領をおぼえたものだ。それで、ある日急に買い物上手になったりもする。店との相性もあるもので、気に入りの店だと安く買えたりする。なじみがいもあった。ドジが固定するものでもないし、ある店ではドジでも、別の店では要領よくナジミになったりもした。
6. いつでもドジだと
困るかというと、そうした人間は、店のほうからまけてくれた。ドジにつけこんで、いつももうけていたのでは、店の評判も落ちるのだった。
7. そして、要領のよい子を相手にとなると、店のほうでもなかなかシブトイ。
値切り合戦というのは、ゲームでもあった。そしてそこには、ヤヤコシイ人間関係があった。
8.
若い人に聞くと、そんなのメンドクサイ、と言う。金を出して物を手に入れる、それだけならば、だれでも同じ
値段で物が手に入るのが「平等」だ。その
極端なのは、自動
販売機で、機械にお世辞を言っても、まけてくれない。
9. しかしぼくは、要領のいいのやドジなのや、さまざまに混じりあって、店も客もさまざまに気を使いあう世の中が、よい世の中だと思う。
10. 校則だって、守る生徒やら守らない生徒があって、うるさい教師や
甘い教師があって、そのなかで
叱られたり
逃げたり、そのほうが気持ちがよい。このごろの「非行生」の文句に、「他の人間もやってるのに、自分が
叱られるのは不公平」というのがある。これは、「非行」それ自体よりも、人間社会にとってよほど
危機ではない∵か。
11. 自分がドジで
叱られようが、要領のよい仲間が
叱られずにすむことは、喜ぶべきことであるはずだ。「不公平」というのは、ヤッカミ根性のことかもしれぬ。
12. 問題は自分だけのことだ。他人が
叱られようが
叱られまいが、どうでもよいことだ。今はドジでも、今度はうまくやればよい。こういうのこそ、「自立してない」と言うんだろうな。せめて「非行生」だけでも自立してほしい。「
優等生」が自立してないことは、大学生を相手であきらめてるんだから。
13.(森
毅「ひとりで
渡ればあぶなくない」)∵
14. 【1】メダカは長さが三、四センチしかない小さな魚で、
私たちが子どものころはほんとうにどこにでもいました。あまりにありふれていたので、フナやコイなどとくらべると、子どもにとってあまり
魅力のない、雑魚の代表のような魚でした。
15. 【2】ところが、このメダカがなんと「
絶滅危惧種」として
絶滅を心配されているというニュースが流れたのです。一九九九年のことです。子どものころ魚とりに熱中したことのある、
私たちの世代にはとても信じられないことでした。【3】減ったことは事実かもしれない、でもメダカにかぎって
絶滅ということは考えられない、というのが実感でした。しかし、これはどうやら信じなければならない事実のようです。じつに悲しいことです。その
背景にはつぎのようなことがありました。
16. 【4】かつて田んぼは用水路で水を引いていました。その用水路は田んぼとほぼ同じ高さにあり、
微妙な高さの
違いを利用して水の入り口と出口がつくられていました。ひとつの田んぼから出た水がとなりの田んぼに入る、という構造になっているものもありました。【5】そのような用水路は地形に応じて曲がっており、深さも一定でないので、水の流れにも
微妙に
違いがあり、それに応じて
違う植物が生えていました。昔の子どもが夢中で魚とりをしたのは、このような用水路でした。【6】秋になって田んぼから水が
抜かれても用水路には水が残っており、くぼみが「魚だまり」となって魚が生きていたのです。
17. ところが、一九六〇年代からはじまった農業基本整備事業によって、自然の地形に応じてつくられていた田んぼに大きな変化が生じました。【7】かつて人力で営々と築かれてきた田んぼは、大
規模な土木工事によって完全につくりかえられてしまったのです。田んぼの水が管理しやすいように、用水路はU字管というコンクリートの管にされました。断面の形がU字型なのでこう
呼ばれます。【8】U字管の機能は水田に水を運ぶことですから、それ以外のものは必要ありません。その結果、水を流すときは
洪水のように大量の水が勢いよく流れます。
18. 魚が
隠れるところもなければ、カエルが
卵を産むところもありません。【9】用水路は田んぼから効率的に
排水するために、水田との∵高さの差が大きくなるようにつくられました。このため、水を
抜くと田んぼは完全に
干上がります。U字管には魚だまりはありませんから、土の中にもぐって生きるドジョウや小さなメダカも
生き延びることはできません。【0】その結果、夏の「
洪水」と冬の「
砂漠」がくりかえされることになります。これでは生きていける動物はいません。
19. ところが、小動物に対する仕打ちはこれにとどまりませんでした。ちまちました小さな田んぼは農作業の効率が悪いことは確かです。そこで「
暗渠排水」といって、田んぼの地中に管を
埋め、水を集めて
排水することがすすめられたのです。こうすれば水路に使った土地も使えるし、細かなデコボコをなくすことができると考えたのです。こうなると動物には生活する場所がまったくなくなってしまいます。こうして、メダカに代表される無数の小さな生きものたちは、田んぼから
姿を消していったのです。
20. 日本の農業は
稲作が中心ですが、それは米を
巨大なポットのようなところで効率的につくることだけではありませんでした。毎日の営みの中で米づくりを中心におきながらも、
家畜を飼い、
裏山から肥料となる
枯れ葉を集め、ときどきドジョウやフナをとるなど、じつにさまざまな営みの中でおこなわれたものでした。また、田植えのときには
若い女性が晴れ着を着て
早苗を植え、近所の人が助けあって田植えや
稲刈りをするという社会の営みでもありました。そして先祖から
引き継いだ土地に
祈りをささげ、
収穫物に感謝をささげるという心に支えられたものだったはずです。それは工場で米という名の製品をつくるのとはほど遠い営みでした。
21. しかし、この土木工事はそのようなことをすべて
無視したものでした。そのことの意味の深さを
私たちは考えつづけなければならないと思います。
22.(
高槻成紀『野生動物と
共存できるか――保全生態学入門』(岩波ジュニア新書))
長文 6.1週
1.【長文が二つある場合、音読の練習はどちらか一つで可。】
2.【1】「これってどういうこと? 教えてよ。」
3.
私の家では、家族どうしの会話がとても多い。テレビや新聞を見ていて、気になることがあると、みんな
遠慮なく口に出す。名前の分からない芸能人がいれば父は
私に聞いてくるし、可愛い動物が
映れば母は大喜びでみんなを
呼ぶ。【2】中学生の兄はすぐに、聞いてもいないうんちくを言いたがる。
4. そういう
私も、自分が好きな本や
映画の話になると、「これはこういうあらすじで、こんな登場人物がいてね……」と解説を始めてしまうのだから、始末に終えない。
5. 【3】ああでもないこうでもないと話しているうちに、気がついたら番組そのものが終わっていた、ということも少なくない。自分の考えをしゃべって、家族の意見を聞いて、
納得することが楽しいのだ。
6. ある日、
私が
帰宅すると、父と兄が何事か言い合う声が聞こえてきた。【4】ふだんのんびりして
頼りなさそうな父と、ダジャレばかり言っている兄。そんな二人がこんなに熱くなるのは
珍しいことだ。
7. まさか
喧嘩かと
私は身を固くしたが、よくよく聞いてみると、どうやら二人とも同じことについて
怒っていて、その不満を述べ合っているらしい。【5】
私はひとまず安心して、何があったのかと聞いてみた。
8. すると兄は「はやぶさ」のことだと教えてくれた。
小惑星探査機「はやぶさ」が、長い
宇宙の旅を終えて地球に帰ってくる。それも、さまざまなトラブルを
乗り越えて、
奇跡的に。【6】
私はそんなものが
存在していたことすら知らなかった。
9. 父と兄は、その世紀の
瞬間がテレビ
中継されないことに
憤慨していたようだ。とはいえ、今はちょうどサッカーのワールドカップが始まったところだ。四年に一度のイベントを
優先する方が当たり前ではないかと、
私には思えた。∵
10. 【7】
私がそう言うと、兄はいっそう大きな声で、
私に「はやぶさ」の
魅力を語った。その任務が世界初の試みであること、事故でボロボロになったにも関わらず必死に帰ってこようとしていること、中でも一番
驚いたのは、その
放浪の旅が七年にも
及んでいるということだった。四年に一度どころではない。
11. 【8】兄たちはこれから、わざわざジャクサのホームページに接続して、動画で
帰還を
見届けるのだという。せっかくだからと
私も
一緒に見ることにした。その
映像はお世辞にも
鮮明とは言えなかったが、
燃え尽きていく「はやぶさ」の
姿は、まるで大きな流れ星のようだった。【9】そして
私は
翌日、その美しさについて、見ていなかった母に熱く語って聞かせることになったのである。
12. 人間は
誰かと対話をすることで、新しいことを知り、自分の世界を広げることができる。そうした対話を欠かさないことは、
私の家族の長所と言っていいと思う。【0】じっくり話してみることで、身近な人の
更なる長所を見つけることもできる。
私は、これからも家族の対話を大切にしていきたい。
13.(言葉の森長文作成委員会 ι)∵
14. 【1】
昆虫の
幼虫が育つ日数(
幼虫期間)は、
哺乳類などにくらべて短いものが多い。夏のイエバエはたった一週間で
幼虫が発育をとげて
蛹になり、四日たつと
蛹から成虫に羽化するというスピードぶりである。【2】一方、カワゲラ類の三年.ムカシトンボの五年、アブラゼミやミンミンゼミの六年などのように、犬や
猫より長くかかって親になる
昆虫もいる。
15. しかし、上には上があるもので、五〇年もかかって育つ
昆虫がいる。アメリカ西部にすむアメリカアカヘリタマムシがその記録保持者である。【3】日本のタマムシはその美しさゆえに、
法隆寺の
国宝・
玉虫厨子に
翅が使われているが、アメリカアカヘリタマムシも
美麗さにかけてはひけをとらない
甲虫で、金緑色の
翅鞘が赤くふちどられている。
16. 【4】このタマムシは
樹勢のおとろえたアメリカマツを選んで
産卵し、
幼虫は木の内部を食べて二、四年後に
蛹になり、羽化した成虫は、ひと冬木の中ですごしてから
脱出する。ここまでなら、成育日数が多少長くかかる
昆虫にはよくある話で、それほど
珍しいことではない。
17. 【5】ところが、
幼虫が小さいうちに林のマツが
伐採されて建材になると、発育の間のび現象がおこる。建築後数十年たった家屋の柱、
床板、
窓枠、あるいは長年使ってきた食器
戸棚などから、ひょっこり成虫が現れてくる。【6】それもアメリカだけでなく、この虫が分布していないはずのヨーロッパやグアム島などで国内羽化が記録されている。それは、
幼虫のひそんでいたマツの木材がアメリカから輸入されて使われたためである。
18. 【7】この虫は
伐採したマツ材にはけっして
産卵しないから、
伐採後何年目に成虫が出現したかでおおよその成長記録が
推定できる。最高記録の五一年は
幼虫として発見されたものなので、半世紀以上かかって育ったことになる。
19. 【8】
幼虫期間がふつうの一〇倍以上もかかる理由は、木材が
乾燥して水分が不足したための発育
遅延と説明されている。
乾燥により∵命がのびたという見方もできる。
乾燥という
厳しい逆境で、体がひからびて死ぬこともなく、しぶとく育つこの虫の生命力には
驚嘆させられる。
20. 【9】極限の
乾燥にさらされながら何年も生きぬく、もう一つのすごい虫にアフリカのユスリカがある。ユスリカの
幼虫(アカボウフラ)は水生で、水がないと発育できないだけでなく、水がなくなれば死がおとずれる。【0】しかし、ナイジェリアの
砂漠にすむポリペディウムというユスリカの
幼虫は例外である。日照りがつづいて水が
干あがると、土の中でミイラのように
縮んだ
姿になり、雨が
降るのを何
ヵ月も待つ。じっとがまんの日がつづいたあと、
旱天の
慈雨に
恵まれるとよみがえって本来の
姿にもどり、発育を再開する。実験室で数年間
乾燥させて
貯蔵した
幼虫を水にいれたところ、すぐよみがえって活動をはじめたという報告もある。
乾燥で命がのびたような気さえする。
21. この虫は
乾燥に強いだけでなく、短時間なら、
摂氏一〇二度からマイナス二七〇度の高低温にも
耐えるという。
22.
23.(安富和男の文章から)
長文 6.2週
1. 【1】「ガッツがある」とか「根性が足りない」とかいった言葉をよく耳にしますが、
私は、どうも好きになれません。そもそも〃guts〃なんて、「
臓物」という意味だし、この言葉の音が
汚いのも、
嫌いな理由の一つです。【2】根性も、本来の仏教語では、「草木の根にたとえられる人間の性質」のことですが、現在では
違った意味に使われるので
嫌な言葉の一つになりました。
2. ものごとを
一所懸命にやることは本当に大切なことです。ただ、目を血走らせ、ムキになった、むきだしの表情を、
私は好まないのです。【3】
闘志は表面に出さず、内に
秘めておくもの、これが
私の美意識だからです。
3. 「
一心不乱」はすばらしいのですが、「
盲目的ないちず」が
困るのです。いつも「主人公」が目覚めていなくては、お話になりません。そのためにも、そこに「遊び」が必要ではないでしょうか。【4】つまり、
余裕です。「遊び」には、大事な意味がいくつかあります。たとえば、
肝心なのは、「自分のしたいこと」を「楽しむこと」です。いわば、自分の好きなことをして「楽しむ」のです。それに、「機械の遊び」という場合の「遊び」のような「
余裕」「余地」、「遊びの時間」のような「ひま」が大切です。
4. 【5】自動車のハンドルにも、「遊び」があります。あの遊びがなかったら、ずいぶん運転しにくくなるでしょうし、第一、
危険です。ハンドルに遊びがあるので、少しばかり手がすべっても、急に変な方向へ曲がらないですむのです。【6】人生という車にも、この「
余裕」「ひま」という遊びがないと
危険です。
5.
子供たちの天職は、遊ぶことです。たっぷり遊ぶのが役目です。しかし、部活だの、
塾通いだの、受験勉強だの、すべて強制、半強制のわくの中で、せかせかした生活をしています。【7】小学校、中学校、高等学校を、このように過ごさざるを得なかった学生たちを見ていると、
私は、一大学教師として、もの悲しさで
一杯になるのです。
6.
私どものところでは、学生たちは、二年に進むとき、自分の
専攻したいコースを選びます。【8】その際、英米文学コースを志望す∵る学生たちを集めて、一人ずつ面接をします。そして、あれこれ質問するのですが、近年はますます
幼稚さが目立ちます。大学へ入ったけれど、一体自分が何をしたいのか分からない。【9】英米文学コースに所属したいらしいが、何を学びたいわけでもない。文学をやりたいなどと言いながら、文学作品などほとんど読んだことがない。人生や、
宗教や、友情や、人間の様々な側面に深い関心をもたずして、文学などと、まったく何をかいわんや、です。【0】
7.(中略)
8. ものをおいしく食べるには
お腹をすかせたらいい。そうしたら、強制されなくても、
誰だって自分から食べようとします。同様に、本来の人間に備わっている
好奇心が働き出せば、自然に
知識欲が
湧いてきて、自然に勉強したくなります。そんな状態においてやるのが、本来の教育です。
子供たちの、一人一人が持って生まれた「個性」、それを引き出してやるのが、教育者のはずです。しかしながら、無理やり、知識を頭の中へ
詰め込まれた結果、人間本来の
好奇心がすっかり消えてしまったのです。それも、感受性が最も強く、人間の心の勉強をするのに最も適している時期に、外から、よけいなもので
一杯にされて、本来の
好奇心の働く余地が、すっかりなくなってしまったのです。画一的に
鋳型にはめられた結果、遊びの
好奇心も、自由に働く想像力も、新しい発見の
創造力も、みんな学歴主義に
塗り込められてしまいました。
9. 想像力は心に必要な遊びです。心が本来の自由な
姿に
戻れば、人間の想像力が働き出します。この想像力の遊びもまた、心にとって栄養となります。想像は
創造につながります。想像がさらに深まれば、「思いやり」となって、人間関係を
創造するのです。
長文 6.3週
1. 【1】先日、日本産トキの
絶滅が確実になったと報じられた。種の
存続のためにさまざまな努力がはらわれ、中国産のトキを借り受けてペアリングも試みられたが、失敗に終わった。関係者の
落胆は大きかったにちがいない。
2. 【2】トキのように
絶滅寸前にまで追いこまれた動物や、その数を
激減させている植物を救おうと努力する
姿は、「人間の良識」と評される。その通りと思う半面、
偽善ではとのむなしい思いが残る。第二第三のトキを生む自然
破壊が、日本全国で進んでいるからである。
3. 【3】一九八九年に
環境庁が発行したレッドデータブックには、
緊急に保護を要する動物だけでも約三万七千種近くが
記載されている。イリオモテヤマネコなど、
絶滅の
危機にひんしている動物も多い。
4. 身近な動物の中にも、
姿を見ることがまれになったものが少なくない。【4】日本在来のメダカは外来種に追われて、東京の河川ではめったに見られない。ミヤコタナゴも少なくなった。ゲンゴロウやタガメなどの水生
昆虫も
激減した。人間の良識とは、その数が
激減している動植物に対し、早急に保護の手を
差し延べることである。【5】
絶滅が
確実視されるまで放置したあとで、
救済努力を
傾注するということには、大きな
矛盾を感じる。
5. 自然保護の先進国アメリカでは、一八七二年、世界に先がけてイエローストーン国立公園を設置した。日本では自然保護など話題にもならないころのことである。【6】一九一六年には国立公園局が設置され、自然景観や動植物の保護に全国的な制度が確立、機能的に運営されて今日に
至っている。
6. 他方日本では、一九三一年に国立公園法が制定され、一九五七年に自然公園法に代わった。【7】自然保護の基本的考え方は先進国のそれを
踏襲したが、戦争をはさみ、戦後は自然保護と
経済発展のはざまでゆれ動き、必ずしもその機能を果たしていないのが実情である。
7. アメリカの
徹底した自然保護を日本のそれと
比較して、そのちが∵いをなげいていた筆者だが、最近うれしい体験をした。【8】わが家の
子供たちが一年以上も飼育をつづけているカマキリの話題である。
8. 親は秋に
産卵を終えて死んだが、その
卵が六月に飼育箱の中で
孵化した。先日
渡米の折、ロサンゼルスの友人たちにこのカマキリの話をした。【9】ところが、かれらの話では、ロサンゼルスではカマキリの
捕獲が禁止されているそうだ。数が
激減しているのがその理由だった。
9. 東京に比べれば、はるかに土地は広く緑も多い。
郊外にはコヨーテまで
出没し、飼いねこが
犠牲になるほど自然にめぐまれた都市である。【0】そこで
子供たちがカマキリをとらえて飼育観察できないとはさびしい限りだ。
10. ロスより自然
環境は悪い東京だが、都心でも植えこみや生けがきに毎年カマキリの
卵が見られ、六、七月にはあみ戸に張り付く子カマキリの
姿が多い。
子供たちの通常の
捕獲ぐらいでは、減りそうにない数である。アメリカが自然保護で先進国となった一因として、他国より早く自然を
破壊したことも考えられる。今日でもカマキリを自由にとらえて、飼育観察できる東京に、ささやかな幸せを感じた経験だった。
11.
12. ペアリング…おすとめすの一組にすること。
13. レッドデータブック…
絶滅のおそれのある野生生物の現状を記録した資料集。
14.
傾注する…精神や力を一つの事に集中する。
15.
踏襲する…前人のやり方などをそのまま受けつぐ。
長文 6.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. 今年の秋、ウィーンの楽友協会ホールで武満
徹さんの新作クラリネット・コンチェルトがウィーン・フィルハーモニーによって
演奏される。二百年前、モーツァルトのクラリネット・コンチェルトがウィーンで初
演奏されたのを記念する
催しで、百年前には同じ
趣旨でブラームスがクラリネット五
重奏を作曲していることを考えると、これは日本の音楽界だけでなく日本にとって大きな出来事だと思う。おそらくわが国の文化芸術の分野でこれに
匹敵することはかつてなかったし、今後もそうそうあることではなかろう。(中略)
3. 製紙会社の会長と作曲家武満とのかかわり合いを不思議に思われる方もあると思うが、家内同士が学校時代からの親友で、武満さんが二十
歳を過ぎたころから家族ぐるみのお付き合いをしてもう四十年にもなろうとする。だからといって
私は
彼の音楽をいっこうに理解するものではないが、今回世界の
存在とまでなった武満さんの人生の来し方を
眺め続けてきた者として、その人間的バックグラウンドを語ってみたい。
4. 何よりもまず自分の道を自分のやり方で歩いてきた人である。作曲家としても
徒手空拳、自ら一家をなしたので、音楽学校へいったわけでも特定の師についたのでもない。本当に才能のある人は
既成概念で教育など授けないほうがよほど
純粋に成長できるという真理を
彼もまたわれわれに示してくれた。
大江健三郎との
共著「オペラをつくる」の中で
彼はこういっている。
5.「ぼく自身が音楽家としての四十年、音を表現
媒体として、自分でしか言い表せないようなことを表す。……音楽といってもその表現のスタイル、形式は多様で、たんに
慰めや
娯楽のための音楽であれば、時代の人たちが喜ぶような表現方法はあるように思います。しかし、ぼくがやっている音楽はそういうものでなくて、音というものを通して人間の実在について考える。どちらかというと、詩とか
哲学とか、そうしたものに近い表現形式として音楽をやっているわけで、これがいちばんむずかしいところなんですね」
6.
創造性と個性、いまの日本人にこれほど求められているものはない。∵
7. 武満さんはまた世界人であると同時にすぐれて日本人である。
彼の作風からもこのことはよくうかがえる。代表作であるノヴェンバー・ステップスには和楽器である
琵琶と
尺八が取り入れられ、本来西洋のものであるコンチェルトに日本の音色を植えつけたことはあまりにも有名である。前述の本の中で
彼はまた、「
僕の音は西洋音楽の音とはまったく
違う」とも述べている。
彼の音楽は西洋の
亜流ではないようだ。そこが世界の注目をひき絶賛を博しているのだと思う。(中略)
8. ややしかつめらしいことを書いてきたが、多くの人々が武満さんにひかれるのは、根っからの
市井人である一面であろう。
立派なサイレント・マジョリティの一員、
卑近な言い方をすれば
熊さん、八つぁん的要素である。
熱狂的な
阪神タイガースファンでシーズンになると外出先でもラジオを
離さず
一喜一憂している。まさに日本人の判官びいきを絵に
描いたようなものである。
9.
私は
彼の
背広姿をほとんどみたことがない。
普通はズボンにセーター、改まったときは、ネクタイなしだが独特のスタイルのジャケットを着用している。最近、だれのデザインですかと聞いたら、これは森
英恵さんですと答えた。これで日本はおろか世界中を通している。
私はひそかに浴衣がけの外交と
呼んでいる。あのとても
頑丈とはいえない肉体で年に何回となく外国に出かけるエネルギーは
聡明で
献身的な
奥さん、才気
煥発の
お嬢さん、そして
猫二
匹という
恵まれた家庭のたまもので、これは
彼の最大の作品かもしれない。
市井人の常識が申し分なく働いている。ここにもいまの日本人がともすればないがしろにしがちなものがある。
10. 武満
徹論を最後に
締めくくれば、世界への道の前に日本の道があり、日本への道の前にわが道があったということであろうか。そして
平凡の中に
非凡があることがなんとも
魅力的である。
11.(河毛
二郎「逆風順風」)∵
12. 【1】小学生のとき、夢中になって『ファーブル
昆虫記』を読んだ。理科よりも国語、算数よりも社会が好きだった
私は、はじめこの本のタイトルを見て、
敬遠していた。
13. 「おもしろいわよ。たまには、こういうのも読んでみたら?」
14. 物語にばかり
偏る私に、
勧めてくれたのは母だった。
15. 【2】朝顔の観察とか、
蟻の巣づくりを調べるとかいうことは、好きなほうではなかった。たぶん、そんなようなことが、たくさん書いてある本だろうと思っていた。そして実際に読んでみると、たしかに内容は、そんなようなことである。【3】にもかかわらず、ぐいぐい
引き込まれていった。
勧めた母親のほうがあきれるくらい、
寝ても覚めても『ファーブル
昆虫記』、という感じだった。
16. それでは、
私はファーブルによって、
昆虫への理科的な興味を開眼させられた、といっていいだろうか?
17. 【4】ちょっと
違うような気がする。それまで夢中になった本と同じように、
私はそこに「物語」を読んでいたのだ。
18. 登場する
昆虫たちは、ユニークで頭がよくて
愛嬌のある主人公。
彼らのくりひろげる「生きる」という物語にすっかり
魅せられてしまった。
19. 【5】『ファーブル
昆虫記』の素晴らしさは、ここにあるのだと思う。自然のなかに
隠されている、楽しくて不思議でときには
厳しい物語の数々を、現在進行形でファーブルとともに発見してゆく喜び。『オズの
魔法使い』や『不思議の国のアリス』を読んでいるときにも似たような
興奮が、そこにはあった。
20. 【6】なかでも印象に残っておもしろかったのは「ふんころがし」すなわち「オオタマオシコガネ」の章である。今回あらためて読みかえしてみて、この虫を
描くときのファーブルの筆には、ひときわ愛情がこもっているように感じられた。子ども心にもそれが伝わったのだろうか。
21. 【7】自然の
恵みを受けることと、自然と戦うことが、
表裏一体となって
紡がれるドラマ。西洋ナシの形をしたお団子のなかで生きる∵
幼虫の話は、何度読んでも
飽きないものである。虫の持つ
知恵への
驚きも、もっとも大きい章だった。
22. 【8】ところで、
昆虫というと、最近ちょっと気になる報道があった。
23.
昆虫採集は自然
破壊につながるのでやめようという意見があるという。子どもにも自然を大切にする心を教えなければ、と。
24.
一瞬、なるほどと思いかけて、いやいや待てよ、と思った。【9】
蝉を採ったり
甲虫をつかまえることは、自然と親しむことにこそなれ、自然を
破壊することにはならないのではないだろうか。むしろ、そういう体験をすることなしに大人になってしまうことのほうが、こわいような気がする。【0】
25.
貴重な高山植物や
珍種の
蝶を採ることはもちろん規制されてしかるべきだろう。が、そういう
特殊な例を
除けば、
昆虫採集の禁止は、それこそ
近視眼的な発想ではないかと思う。子どもが採集するぐらいで、
蝉や
昆虫は
絶滅したりはしない。山を
切り崩したり、ゴルフ場を造ったりするほうがよっぽど虫たちを
脅かすことになるだろう。
26. そんな
愚行から虫たちを守ろうと、
将来発想することができるのは、どんな育ちかたをした子どもだろうか。
蝉も
甲虫も見たことがない、というのでは、はなはだ心もとない。
27. ファーブルも、さまざまな実験の
途中では、多くの虫たちを死なせてしまっている。
蝉をフライにして食べちゃったりもする。が、ファーブルが心から虫を愛していた人であることはいうまでもない。
昆虫採集禁止をとなえる人は、ファーブルの
行為もまた
残酷だというのだろうか。
28. 愛情は、なにもないところからは生まれない。まず「知る」ことが、愛情のめばえのスタートだ。
29.(俵
万智「二十一世紀の子どもたちへ」(『世界文学の玉手箱四
昆虫記 下』(解説)(
河出書房新社)
所収)より)