ハギ の山 5 月 4 週 (5)
○メダカは長さが   池新  
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 ぼくの小さいころは、買い物をするのに定価のないことが多かった。店の人と世間話から始まって、値切るやりとりがあった。そして、自分が値をきめたような気分が少しはあって、その値段にチョッピリ自分の責任があった。
 もちろん、ドジだと高く買わされる。要領のよいのがトクをする。同じものを買うのに、高く買うのもあれば、安く買うのもいる。まったく、「不平等」だった。
 このごろでは、共同購入などと、代表者にまかせるのまである。そのかわり、みんなが同じ値段で買う。国家と生命の売買をやるのだって、代表者にまかせて、みんなが同じ値段でやるのじゃないかと、時節がら少々不安である。
 ドジを重ねて、要領をおぼえたものだ。それで、ある日急に買い物上手になったりもする。店との相性もあるもので、気に入りの店だと安く買えたりする。なじみがいもあった。ドジが固定するものでもないし、ある店ではドジでも、別の店では要領よくナジミになったりもした。
 いつでもドジだと困るかというと、そうした人間は、店のほうからまけてくれた。ドジにつけこんで、いつももうけていたのでは、店の評判も落ちるのだった。
 そして、要領のよい子を相手にとなると、店のほうでもなかなかシブトイ。値切り合戦というのは、ゲームでもあった。そしてそこには、ヤヤコシイ人間関係があった。
 若い人に聞くと、そんなのメンドクサイ、と言う。金を出して物を手に入れる、それだけならば、だれでも同じ値段で物が手に入るのが「平等」だ。その極端なのは、自動販売機で、機械にお世辞を言っても、まけてくれない。
 しかしぼくは、要領のいいのやドジなのや、さまざまに混じりあって、店も客もさまざまに気を使いあう世の中が、よい世の中だと思う。
 校則だって、守る生徒やら守らない生徒があって、うるさい教師や甘い教師があって、そのなかで叱られたり逃げたり、そのほうが気持ちがよい。このごろの「非行生」の文句に、「他の人間もやってるのに、自分が叱られるのは不公平」というのがある。これは、「非行」それ自体よりも、人間社会にとってよほど危機ではない∵か。
 自分がドジで叱られようが、要領のよい仲間が叱られずにすむことは、喜ぶべきことであるはずだ。「不公平」というのは、ヤッカミ根性のことかもしれぬ。
 問題は自分だけのことだ。他人が叱られようが叱られまいが、どうでもよいことだ。今はドジでも、今度はうまくやればよい。こういうのこそ、「自立してない」と言うんだろうな。せめて「非行生」だけでも自立してほしい。「優等生」が自立してないことは、大学生を相手であきらめてるんだから。

(森毅(つよし)「ひとりで渡ればあぶなくない」)∵
 【1】メダカは長さが三、四センチしかない小さな魚で、私たちが子どものころはほんとうにどこにでもいました。あまりにありふれていたので、フナやコイなどとくらべると、子どもにとってあまり魅力のない、雑魚の代表のような魚でした。
 【2】ところが、このメダカがなんと「絶滅危惧種」として絶滅を心配されているというニュースが流れたのです。一九九九年のことです。子どものころ魚とりに熱中したことのある、私たちの世代にはとても信じられないことでした。【3】減ったことは事実かもしれない、でもメダカにかぎって絶滅ということは考えられない、というのが実感でした。しかし、これはどうやら信じなければならない事実のようです。じつに悲しいことです。その背景にはつぎのようなことがありました。
 【4】かつて田んぼは用水路で水を引いていました。その用水路は田んぼとほぼ同じ高さにあり、微妙な高さの違いを利用して水の入り口と出口がつくられていました。ひとつの田んぼから出た水がとなりの田んぼに入る、という構造になっているものもありました。【5】そのような用水路は地形に応じて曲がっており、深さも一定でないので、水の流れにも微妙に違いがあり、それに応じて違う植物が生えていました。昔の子どもが夢中で魚とりをしたのは、このような用水路でした。【6】秋になって田んぼから水が抜かれても用水路には水が残っており、くぼみが「魚だまり」となって魚が生きていたのです。
 ところが、一九六〇年代からはじまった農業基本整備事業によって、自然の地形に応じてつくられていた田んぼに大きな変化が生じました。【7】かつて人力で営々と築かれてきた田んぼは、大規模な土木工事によって完全につくりかえられてしまったのです。田んぼの水が管理しやすいように、用水路はU字管というコンクリートの管にされました。断面の形がU字型なのでこう呼ばれます。【8】U字管の機能は水田に水を運ぶことですから、それ以外のものは必要ありません。その結果、水を流すときは洪水のように大量の水が勢いよく流れます。
 魚が隠れるところもなければ、カエルが卵を産むところもありません。【9】用水路は田んぼから効率的に排水するために、水田との∵高さの差が大きくなるようにつくられました。このため、水を抜くと田んぼは完全に干上がります。U字管には魚だまりはありませんから、土の中にもぐって生きるドジョウや小さなメダカも生き延びることはできません。【0】その結果、夏の「洪水」と冬の「砂漠」がくりかえされることになります。これでは生きていける動物はいません。
 ところが、小動物に対する仕打ちはこれにとどまりませんでした。ちまちました小さな田んぼは農作業の効率が悪いことは確かです。そこで「暗渠排水」といって、田んぼの地中に管を埋め、水を集めて排水することがすすめられたのです。こうすれば水路に使った土地も使えるし、細かなデコボコをなくすことができると考えたのです。こうなると動物には生活する場所がまったくなくなってしまいます。こうして、メダカに代表される無数の小さな生きものたちは、田んぼから姿を消していったのです。
 日本の農業は稲作が中心ですが、それは米を巨大なポットのようなところで効率的につくることだけではありませんでした。毎日の営みの中で米づくりを中心におきながらも、家畜を飼い、裏山から肥料となる枯れ葉を集め、ときどきドジョウやフナをとるなど、じつにさまざまな営みの中でおこなわれたものでした。また、田植えのときには若い女性が晴れ着を着て早苗を植え、近所の人が助けあって田植えや稲刈りをするという社会の営みでもありました。そして先祖から引き継いだ土地に祈りをささげ、収穫物に感謝をささげるという心に支えられたものだったはずです。それは工場で米という名の製品をつくるのとはほど遠い営みでした。
 しかし、この土木工事はそのようなことをすべて無視したものでした。そのことの意味の深さを私たちは考えつづけなければならないと思います。

(高槻成紀『野生動物と共存できるか――保全生態学入門』(岩波ジュニア新書))