長文集  5月2週  ★少年のころの桜は(感)  ha-05-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】少年のころの桜はもっと長く咲いて
いた感じだが……と春ごとに同じ思いをくり
返してきたが、今年の桜は久しぶりに長かっ
た。歩いて通勤できるようになって、花を見
る目のほうに少年時代ののどかさがもどって
きたせいにちがいない。
 【2】「桜前線」という言葉があるが、こ
の言葉はいただきかねる。季節感はやはり「
※1梅一輪ほどの」とか「※2風の音にぞ」
といった、微小感覚のものであり、大きく見
渡すといったところ で、「※3柳桜をこき
まぜて」という程度なのであって、巨視的 
に、日本列島全体を見下ろすスケールは、ど
うにも花見のさまでないと思う。【3】つま
るところ、昔からある「花便り」のほうが、
はるかに風情に富むのである。「つぼみふく
らむ」「ちらほら咲 き」「八分咲き」「散
り初め」「落花盛ん」「散り果て」。花便り
の言葉も、微小感覚を表し分けて、まことに
風情に富んでいる。
 【4】ところが、散り初めのころのある日
、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面
に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表
す言葉がないのに気がついた。風が一斉に散
らす花には、「花吹 雪」「散り交う」とい
う言葉がある。【5】だが一ひらまた一ひら
と、自分の重みだけで木を離れ、○○○てゆ
く花びらのありさまをいう動詞は、簡単には
見つからない。具体的に言えば、右の○○○
印を「散る・落ちる・流れる・こぼれる」な
どで埋めてみても、ぴたり、とはゆかないの
である。【6】肌に感じるほどの風はなく、
空は青く晴れわたり、いましも枝離れした花
びらは、空気がそこにあるのだということを
気づかせる程度の支えを受けて、静かに漂う
がごとくにしつつ、しかし確かに地表へ降り
てゆく。それは「漂 う」でもなく、もとよ
り「降りる」でもない。
 これと似たような光景を、私は秋の信州で
見たことがある。【7】からまつのこまやか
な葉が、同じように自分の重みだけで枝を離
れ、金色の光をひるがえしながら、音もなく
地表に降り積むのであった。からまつという
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のを見るのが、そもそも初めてであったから
私はその美しさと静寂に息をのみ、林の中に
たたずみつくした∵のを覚えている。【8】
そしてそれを日記に書こうとして、「からま
つの葉が」とだけ書いてたちまち言葉につか
えたものだ。青年時代の経験だが、今なおあ
の光景を表す言葉を発見できないままであ 
る。
 桜の花びらと、からまつの葉と、自然はつ
いに言語の及びえないものなのであろうか。
【9】何をそうめんどうな、「降る」でよい
ではないかとも思うのだが、雪よりも長く時
間をかけて、浮かびながら降りてゆく一枚一
枚の、数量と重量についての微小感覚が、「
降る」には欠けていてもどかしい。【0】
 花便りのいろいろの言葉を作り出し、育て
てきた日本語だから、私のまだ知らないとこ
ろに、あの美しさを表す言葉があるかもしれ
ない。もし日本語にそれがなければ、それは
日本語の語彙の貧弱を意味すると、二十年前
と同じことを考えさせられた。日本語になく
てはならない言葉のように思えるのだが。
 
(渡辺 実氏の文章による)
 ※1梅一輪ほどの…嵐雪の句。「梅一輪一
輪ほどの暖かさ」を指す。
 ※2風の音にぞ…藤原敏行の和歌「秋来ぬ
と目にはさやかに見えねども風の音にぞおど
ろかれぬる」を指す。
 ※3柳桜をこきまぜて…素性法師の和歌「
見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりけ
る」を指す。
 ※4語彙…言葉の総体。