ハギ の山 5 月 2 週 (5)
★少年のころの桜は(感)   池新  
 【1】少年のころの桜はもっと長く咲いていた感じだが……と春ごとに同じ思いをくり返してきたが、今年の桜は久しぶりに長かった。歩いて通勤できるようになって、花を見る目のほうに少年時代ののどかさがもどってきたせいにちがいない。
 【2】「桜前線」という言葉があるが、この言葉はいただきかねる。季節感はやはり「※1梅一輪ほどの」とか「※2風の音にぞ」といった、微小感覚のものであり、大きく見渡すといったところで、「※3柳桜をこきまぜて」という程度なのであって、巨視的に、日本列島全体を見下ろすスケールは、どうにも花見のさまでないと思う。【3】つまるところ、昔からある「花便り」のほうが、はるかに風情に富むのである。「つぼみふくらむ」「ちらほら咲き」「八分咲き」「散り初め」「落花盛ん」「散り果て」。花便りの言葉も、微小感覚を表し分けて、まことに風情に富んでいる。
 【4】ところが、散り初めのころのある日、枝を離れた花びらを見ていて、これが地面に達するまでのあいだの状態を、ぴたりと表す言葉がないのに気がついた。風が一斉に散らす花には、「花吹雪」「散り交う」という言葉がある。【5】だが一ひらまた一ひらと、自分の重みだけで木を離れ、○○○てゆく花びらのありさまをいう動詞は、簡単には見つからない。具体的に言えば、右の○○○印を「散る・落ちる・流れる・こぼれる」などで埋めてみても、ぴたり、とはゆかないのである。【6】肌に感じるほどの風はなく、空は青く晴れわたり、いましも枝離れした花びらは、空気がそこにあるのだということを気づかせる程度の支えを受けて、静かに漂うがごとくにしつつ、しかし確かに地表へ降りてゆく。それは「漂う」でもなく、もとより「降りる」でもない。
 これと似たような光景を、私は秋の信州で見たことがある。【7】からまつのこまやかな葉が、同じように自分の重みだけで枝を離れ、金色の光をひるがえしながら、音もなく地表に降り積むのであった。からまつというのを見るのが、そもそも初めてであったから私はその美しさと静寂に息をのみ、林の中にたたずみつくした∵のを覚えている。【8】そしてそれを日記に書こうとして、「からまつの葉が」とだけ書いてたちまち言葉につかえたものだ。青年時代の経験だが、今なおあの光景を表す言葉を発見できないままである。
 桜の花びらと、からまつの葉と、自然はついに言語の及びえないものなのであろうか。【9】何をそうめんどうな、「降る」でよいではないかとも思うのだが、雪よりも長く時間をかけて、浮かびながら降りてゆく一枚一枚の、数量と重量についての微小感覚が、「降る」には欠けていてもどかしい。【0】
 花便りのいろいろの言葉を作り出し、育ててきた日本語だから、私のまだ知らないところに、あの美しさを表す言葉があるかもしれない。もし日本語にそれがなければ、それは日本語の語彙の貧弱を意味すると、二十年前と同じことを考えさせられた。日本語になくてはならない言葉のように思えるのだが。
 
(渡辺 実氏の文章による)
 ※1梅一輪ほどの…嵐雪の句。「梅一輪一輪ほどの暖かさ」を指す。
 ※2風の音にぞ…藤原敏行の和歌「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」を指す。
 ※3柳桜をこきまぜて…素性法師の和歌「見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」を指す。
 ※4語彙…言葉の総体。