1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2.「ばあちゃん、もう春は来とるんかな」
3. ヨウはかまどに
薪をくべているるい
婆さんに
蒲団の中からちいさな顔だけを出して聞いた。るい
婆さんはもやのたちこめる暗い土間の
隅にしゃがんだままゆっくりとふりむいて、
4.「春の夢でも見たんかや」
5.と日焼けした顔から白い歯をのぞかせて言うと、こくりとうなずいた
孫娘に、
6.「ああ、もうとっくに
日向ッ原じゃ春の歌がはじまっとるぞ」
7.とうれしそうに笑いかけた。
8. ヨウはおおきな目をかがやかせて、
蒲団を
跳ね上げて立ち上がると、土間のサンダルをつっかけ
寝間着のまま外へ走り出した。
9.「こらっ、顔を
洗ってから行かんか」
10.
背後で聞こえる、るい
婆さんの声にヨウは首を横にふりながら、島の南西を見下ろせる
裏手の
段々畑までの
畔道をかけ上がって行った。
11. 昨日まではぬかるんでいた道をヨウは犬のように
跳ねながら走る。イモ畑を
越え蜜柑の木の下を
抜けて、牛のモグがいる小屋の前にたどり着くと、ヨウは立ち止まって朝陽に光る海を見下ろした。
12. 半月余り続いた雨が上がった
瀬戸内海は無数の
波頭が西へむかう鳥の群れのように
踊っていた。ヨウは
肩で息をしながらおおきな目を少しずつ下げて行く。海原にむかって
突き出した
皇子岬、左手にとんがり
帽子のように頭を見せる
岬の白い
岩肌が草のひろがる緑にかわると、そこだけ円形のステージのように丸くなった草原、日向ッ原が見えた。
13.「モグ、見てごらんよ。春が来とるよ。日向ッ原に、いっぺんに春が来とるよ」
14. ヨウは大声で
叫んだ。
15. 日向ッ原はまるで花たちが一夜のうちに開花したかのように菜の花とれんげが一面に
咲いていた。春風の織ったじゅうたんがヨウの目にあざやかに
映った。
16.「やっぱり夢で見たとおりだよ、モグ」∵
17. ヨウはその場で
飛び跳ねると、いつものように口をもぐもぐとさせているモグの首に
抱きついた。モグは
喉を鳴らしてから、ヨウの身体を
釣り上げるように首を回した。
18.(
伊集院静「機関車先生」)∵
19. 【1】最近の日本にはプロフェッショナルが少ないと思います。いつからか
専門家というか、プロフェッショナルが
敬遠され始めた。なぜそうなったか
分析はしていないけれど、結果としてアマチュアがもてはやされる国になってしまった。【2】何のプロでもない者が、日常感覚でものをいうことが大変重要だというような、そんな
価値観がはびこっています。
20. たとえば
審議会などに参加しても、
普通の人としかいいようのない委員が堂々と日常感覚の意見を述べる。【3】その情報はいわゆるマスコミで取り上げられるような程度で、実際のところはどうなっているのか、そのデータを知らないのに、ある限られた情報
源に基づく日常感覚があたかもすべての判断の基準かのようなことを主張する。【4】またそれがもっともなことのように、マスコミで取り上げられる。最近はそういうことを
頻繁に見かけます。
21. 本来、そういう場は、さまざまな分野のプロフェッショナルの意見を聞くところでした。【5】プロとはあることがらに関する事実がどうなっているのか、少なくともある条件下ではあるにしても、客観的なデータとして
把握しています。国というものは、プロフェッショナルが運営しなければ
危険きわまりない。【6】もっとも、最近の政治家も
大衆に
迎合するばかりですから、その程度のアマチュアの政治家が多いということですが。いまの
我が国は、この意味では限りなくアマチュアの国になりつつあると思います。
22. 【7】ここでいうアマチュアとは、その主張の
根拠がほとんどマスコミに出ている程度のことにある人のことです。自分の知っている
範囲のことをすべてだと
思い込み、あたかもそれが
正論であるかのように、堂々としゃべる。そんな
風潮が目につきすぎます。
23. 【8】結局、そういう人たちには
謙虚さがないということです。実際のところはよく知りませんが、
私の知っている
範囲はこうだけど――といういい方をするのが当然なのに、そうではありません。これっぽっちの経験しかないのに、それを
拡大して、人類
一般の
普遍的な話としてどうのこうのというような
議論までするわけです。【9】こういう状態を見ていると、この国はどうしようもない国になったなという感じがします。∵
24. プロフェッショナルがいないということは、いいかえれば、エリートが少なくなったということかもしれません。いい大学に入って、いい会社に入って、というのがエリートという意味ではありません。【0】自分の頭できちっと考えることができる、しかもその
座標軸は古今東西の歴史から、芸術、
哲学に通じ、科学に通じる、それがエリートです。このような広い時空スケールの中に自分の
尺度を持ち、したがってすべてのことが判断でき、行動できる。それがエリートです。
25.
秀才と
呼ばれ、大学に残って学者になる人間はいっぱいいます。しかし、現在のいわゆる
秀才というのは
所詮、
与えられた問題が解けるだけの人間です。解くべき問題がつくれない人が、多い。問題がつくれない人はエリートではありません。
26. 戦後教育は、あえてエリートをつくろうとしなかったともいえます。すべての子どもに、最初から
我がある、などという
誤った前提に立ったために、教育と
呼べるような教育をしてこなかったのではないでしょうか。だから、当然のことながらエリートは育たなかったのです。
27.(
松井孝典『コトの本質』(講談社))