長文集  4月3週  ★読書の楽しみは(感)  ha-04-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 【1】読書の楽しみは一人でできる楽しみ
です。碁を打つには相手がいる。野球を楽し
むには自分の他に少なくとも十七人の賛同者
が必要でしょう。そういう楽しみは、いつで
もどこでも、というわけにはゆきません。【
2】道具や、設備や、場合によっては途方も
なく広い場所がなければ、どうにもならない
。読書の方は、設備も要らず、どこかへ出か
けるにも及ばず、相手と相談もせず、気の向
くままにいつでもどこでもできます。【3】
蛍の光窓の雪というのは、貧富の差が大きく
、灯火用の油の値段が高すぎたむかしの話で
す。今は電気がいたるところにあるので、誰
でも、望めば昼となく夜となく好きな本を読
むことができるでしょう。こんな便利な娯楽
はめったにありません。
 【4】しかも、当方の体力とはほとんど関
係がない。老人子供、病人でも、多くの場合
には、それぞれ読んで楽しめます。疲れてい
るときでも、易しい疲れない本を選びさえす
ればよい。しかもカネがかからない。【5】
本が高くなったといっても、どこかの「ファ
ミリー・レストラン」で二、三度食事をする
値段で、大抵の本は買えます。それでも買え
ないほど高い本は、公共図書館にあり、そこ
から借りればタダですむでしょう。こんなに
安くて便利な楽しみを知らぬ人がいるとすれ
ば、その気の毒な人に同情しなければなりま
せん。
 【6】「オーディオ・ヴィジュアル」の情
報が、活字情報を駆逐する(追いはらう)時
代が来た、という人がいます。「ヴィジュア
ル」とは感覚的ということで、たとえば肖像
写真が一人の男または女の顔を示すのは「ヴ
ィジュアル」な情報です。【7】しかしその
他の誰とも違う顔の特徴を言葉であらわすの
は容易なことではありません。肖像写真は、
活字の何十ページ、いや、おそらく何百、何
千ページに相当する情報を一挙に伝えること
ができます。【8】しかしその男または女が
、昨日はソバを食べた、明日はウドンを食べ
るだろう、という活字の一行に相当する情報
を伝えることはできません。肖像写真は人物
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の顔の現在であって、過去も、未来も、表現
できない。【9】「ヴィジュアル」な情報と
言葉による情報(そのひとつが活字情報)と
は、互いに他を補うので、一方が他方を駆逐
するので∵はないし、一方が他方に代わるの
でもありません。言葉は耳で聞くこともでき
ます。耳で聞くのが「オーディオ」。【0】
活字の文章は、声に出して読んでテープレコ
ーダーに記録することができるでしょう。し
かしそうすることが便利な場合と、不便な場
合があります。活字の文章でなく音楽の記録
ならば、あきらかにテープレコーダーが便利
な道具です。六法全書をテープレコーダーに
吹き込むのは、あまりに不便だから誰もしな
いことです。要するに活字時代の後に「オー
ディオ・ヴィジュアル」の時代が来たのでは
なく、活字情報に「オーディオ・ヴィジュア
ル」の情報が加わったというだけのことです
。どちらも楽しめばよいので、どちらか一方
だけを選ぶ必要はまったくありません。
 それでは読書そのものに、どういう種類の
楽しみが伴うでしょうか。それは人により、
本によって違うでしょう。もし共通の楽しみ
があるとすれば、それは知的好奇心のほとん
ど無制限な満足ということになるかもしれま
せん。世の中には好奇心を刺激する対象が数
限りなくあるでしょうから、対象を移して、
好奇心の満足を広げてゆくこともできるでし
ょう。読書の楽しみは無限です。時間をもて
あましてすることがない、といっている人の
心理ほどわかりにくいものはありません。人
生は短く、面白そうな本は多し。一日に一冊
読んでも年に三百六十五冊。そんなことを何
十年もつづけることは不可能で、一生に一万
冊読むのもむずかしいでしょう。それは、た
とえば東京都立中央図書館の蔵書一五〇万冊
以上の一%にも足りないということです。面
白そうな本を読みつくすことは誰にもできな
いのです。すべての本は特定の言語で書かれ
ています。日本で出版される大部分の本の場
合には、日本語です。本を沢山読むというこ
とは、日本語を沢山読むということであり、
日本語による表現の多様性、その美しさと魅
力を知るということもあるでしょう。私は本
を読んで日本語の文章を楽しんで来ました。
それも読書の楽しみの一つです。
 
 (加藤周一 「読書術」による)