長文 7.2週
1. 丸山真男東大
名誉教授が八月十五日亡くなられました。
彼とは昭和六年、一高入学以来の親しい友人でした。高校三年間同じクラスで学び、大学も同じ学部に進みました。大学を出てから
彼は東京大学に残り学究生活に、私は
大阪でサラリーマン生活をすることになりました。思想的には必ずしも同じではありませんでしたが、交友は
生涯変わらず、「機会があったら貴兄と
儒教談義、いな諸子百家談義をしたら楽しいだろうな……」という手紙をもらったのは三年前でした。その楽しみも果たさず他界され、
惜しみても余りあります。心からご
冥福を
祈ります。
2. 昭和十四年、私はノモンハン事件で戦傷を負いました。東京第一陸軍病院に収容された時、
彼から一通の葉書をもらいました。そこにはただ、
3. Durch Leiden Freude−L.v.Beethoven
4. と書いてあるだけでした。
隻脚になった私の
前途は苦難に満ちたものであろうが、ベートーベンのようにその
苦悩を
克服して強く生きてくれという、
彼の友情にあふれる力強い
激励の言葉と私は受け取りました。「苦しみを通じて喜びへ」、
彼に教えてもらったこの言葉が心の
糧となり私の今日までの人生を支えてくれました。
5. また、
見舞いに来てくれた時、
6.「おい、
靖国神社に行かなくてよかったな」
7. と手を取って心の底から喜んでくれたことは忘れられぬ思い出です。
8.
拙著『古教、心を照らす』が出版された時、
彼からこんな手紙が届きました。
9.「……貴著をひもときながら一九六〇年代にオックスフォードに
滞在していた時のことを思い出しました。そのころは、オックスフォード大学に経営学の講義がなかったので、どうしてなのかと、教授の一人に聞いたところ、∵
10.『経営なんていうものは古典と歴史をしっかり勉強すればできるものだ。わざわざ教える必要はない』
11.というのが答えでした。
12. アメリカの経営学を日本が盛んに輸入しているころでしたから、
彼の返答が非常に印象的でした。イギリス人の
痩せ我慢といってしまえばそれまでのことですが、やはり一つの見識で、いかにもオックスフォードらしいなと思ったものです。」
13. 私は経営学は勉強したほうがいいと思います。しかし、「古典と歴史を勉強すれば経営はできる」という見識には
首肯されるものがあります。
14. 「もっと古典と歴史を」
15. そういっている
彼の声が聞こえるような気がいたします。
16. (月刊「
致知」
新井正明氏の文章より)
長文 7.3週
1.
孟子は、
孔子より
遅れてこの世に生をうけた中国古代の思想家だが、かれに、
2.「
忍びざるのこころ」
3.という考えがある。
忍びざるのこころというのは、
4.「他人の不幸や悲しみを、そのままみるに
忍びないこころ」
5.をいう。
6. たとえば、川のほとりを歩いている時に、
車椅子の人や老人や、あるいは小さな子供がいましも落ちかかっている光景を目にしたとする。通りかかった人は、
普通の人間ならすべて、
7.「
忍びざるのこころ」
8.を持っているから、すぐ、
9.「助けなければ」
10.と思って走り出す。そのときためらって、
11.「助けなかったら
誰かにあとから批判されるだろうか。それとも助けたら、家族がお礼に何かくれるだろうか」
12.などというさもしいことは考えない。無計算で
駆け出していく。それが
孟子の、
13.「
忍びざるのこころ」
14.である。
15. しかし、
孟子はこの
忍びざるのこころについてこういうことをいう。
16.「
忍びざるのこころは、人間がつねに持たなければいけないから、これを
恒心と名づけよう。しかしこの
恒心も、あるものがなければ保てない。あるものとは
恒産をいう」
17. と説明して、有名な
18.「
恒産なければ
恒心なし」
19.といいきった。∵
20. いまリストラにあって、
21.「おまえはあしたから、会社にこなくていい。自宅待機だ」
22.といわれたとする。そのビジネスマンの子供が、春から私立の大学に行っている。学費が高い。これをどうするか。また、家を建てたローンが終わっていない。返済計画には、本給だけではなく時間外勤務手当や旅費や、ボーナスなどの雑給もすべてぶちこんできた。自宅勤務になると、これらのものも支給されないという。
23.「いったいおれと家族は、どうやって生きていけばいいんだ?」
24.というような、切実な
悩みに
襲われている人間に、
25.「おまえは少し、
忍びざるのこころが足りないぞ。もっと他人の悲しみや苦労に同情しろ」
26.というのは、いうほうが無理だ。
27. いまから二千数百年前に、
孟子はこういう人情の
機微をすでにいい当てているのだ。
28. (月刊「
致知」童門冬二氏の文章より)
長文 8.1週
1. 私が森信三先生を知ったのは二十八年前の昭和四十三年、神戸市立
魚崎中学校の教頭になったときでした。私たち新任の教頭たちの研修会に、森先生が講師として来られたのです。
2. ところが、先生は一時間も
遅刻され、会場である市役所の会議室にみえたのは午前十一時。もう残り時間は三十分しかありません。そこで先生がお話しになったことは、
3. 「みなさんの学校ではゴミが落ちていませんか。落ちている紙くずに気がつかないで、子供の心がわかりますか。このゴミをね、
誰に命じるのでもなく、みなさんが拾ってください。それも、
黙って
黙々と拾うのです」。
4. ゴミ拾いのこと、ただそれだけでした。
5. 会場には六、七十人ほどいましたが、「
遅れて来たうえに、ゴミ拾いの話とは何ごとだ」と非難の声もあがったようです。しかし、私にはなぜか
理屈抜きに心に
響いてきた言葉でした。
6. 翌朝から紙くず拾いを始めました。朝早く学校に行き、教員室の机にカバンを置くと、そのままの
恰好で校地の周りなどを歩いては
黙ってゴミを拾いました。このことは昭和六十二年に定年退職するまで続きます。私にとっては単なるゴミ拾いではなく、教員生活の支えともなった大きな学びだったのです。
7. こんなことがありました。問題校のT中学校に校長として
赴任した朝、校庭のゴミ拾いをしていた私に、数人の男子生徒が十メートルもない
距離から石を投げてきたのです。
8. 私は、平静を装って立ち上がり、
彼らと対面しました。「うるさい」、「校長のバカ」。そんなことを
叫んで、
彼らは走り去りました。
9. 校長に石を投げてくるとは……初めての体験でした。しかし数日後、
彼らの
行為の意味を考えているうちに、ハタと思い当たったのです。∵
10.
彼らは石を投げてきた。でも、私の体のどこにも石は当たっていない。石を当てようと思ったら、全部命中させられる
距離だった。では、なぜそうしなかったのか。あれは私へのサインではなかったか――と。
11. 先生がたにその生徒たちのことを聞いてみると、学業の成績が悪く、漢字もあまり書けないし、
掛け算の九九もおぼつかないとのこと。また欠席も目立ちます。そういう状態ですから、三年生にもなっていまだに進路も決まっていない。「やっぱり、そうか」と思いました。
彼らは新しくきた校長に「こんな自分たちをなんとかしてくれ」と
訴えてきたのではなかったか。
12. (月刊「
致知」田中
繁男氏の文章より)
長文 8.2週
1. 私は大田区のある町工場で、大
企業から
持ち込まれた試作品づくりの現場に出くわしたことがある。
2. 大
企業が示した設計図の問題点が
指摘される。この設計図では期待されるようには作動しない、この部分は曲線をもっと深くしないと
噛み合わない、といったふうである。
指摘するのは、作業衣を着た町工場のおっさんだ。
3. すぐに発注元の大
企業に問い合わせがなされる。多分大学出の設計専門家がコンピューターを
駆使して書き上げた設計図なのだろうが、町工場の面々が
指摘したとおりに、たちまち修正される。つまり、大
企業の示した設計図は使いものにならなかったのだ。
4. この部分の材料になる鋼材は、どこそこでストックしているはずだ、ここの
削り出しはだれだれのところが得意だ、この
旋盤はあそこにやってもらったほうがいい、ということで、町工場の面々は自転車に乗って飛び出していく。ここに出てくる「どこそこ」も「だれだれ」も「あそこ」も、すべて
近隣の町工場である。
5. コンピュータで情報を
検索することもなく、電話さえも使わず、自転車で行き来しているうちに、たちまち段取りができてしまう。これはさまざまな技術を持った町工場が集積し、
お互いにいわゆるツーカーの関係を保っていればこそである。
6. そして、必要な材料や見事に加工された部分部分が寄せ集められ試作品が形をなしていく。
7. 私は息をのむ思いでことの成り行きを見つめていた。そして、経済大国日本の
基盤となったモノづくりを根底で担った層がどこにいたのか、はっきりと見た思いがした。
8. しかも、その層はいまだに健在なのである。
9. 時代は確かに変わる。だが、変わってはならないものもある。その一つがモノづくりではないだろうか。
10. 過去の歴史にモノづくりをしなかった社会、モノづくりをやめてしまった社会がある。そして、そういう社会は必ず
荒廃し、
衰亡している。社会の根底にモノづくりの
基盤を
据え、それを保持しているかどうかは、その社会の未来を
占うバロメータといえるだろう。∵
11. 日本にはまだ、モノづくりを支える層が健在なのだ。これを時代に取り残されたなどと認識したら、大きな過ちを犯すことになる。
12. 経営学的視点からの批判にいたっては、見当はずれというべきだろう。
企業規模のふくらみにのみ評価の基準を置いて、成功不成功を判断することが
唯一の物差しになっている
悪癖のしからしむるものである。
13. 経営学的なものには最初から関心がなく欠落していたからこそ、技術の
狭い分野を特化して、モノづくりの
基盤を担うことができたということを知らなければならない。
14. 町工場の人びとに話を聞くと、決まって出てくるのが、モノづくりの喜びである。
15. 鋼材から思いどおりの曲面を
削り出すことができた。われながらほれぼれするような
研磨ができた。そういう話をするときの
彼らの顔には、至福といっていい喜びが
溢れ出す。町工場の人びとを満たしているモノづくりの喜びに接するとき、私もまた幸福に感じずにはいられない。そして思うのである。モノづくりの喜びに満たされている町工場の人びとは、日本の宝だ、と。
16. (月刊「
致知」
中沢孝夫氏の文章より)
長文 8.3週
1. よく、教え方がよければ、子供の能力は
伸びる、といわれる。だが、
伸びるのはその子の持って生まれた能力に応じた学力である。ただし、先に述べたように、
伸び方に限りがあるが……。早い話、有名受験
塾がなぜ
入塾テストを
実施しているとお思いだろうか。素質のない子をいくら教えても、有名中学入試の高いハードルを
越えさせられないからである。
2. どうして、この種の情報がきちんと示されないのか。オフレコの約束で(ほとんどの関係者がそうだった)「知能指数と学力は大いに関連がある」と認めた何人かの教育学者に、「教育改革の柱にいつも入試改革が
掲げられるのは教育力に対する
幻想があるからだ。それを
打ち砕くためにも、その意見を公にしたほうがよい」と
迫ったことがある。いずれの学者の答えも同工異曲だった。
3. 「そんなことをしたら、学界で
袋叩きにあいますよ。科学的に証明するのはかなり難しいですし」
4. また、文部
官僚の多くはこういう表現をした。
5. 「それをいっちゃおしまいですよ」
6. 教育力が大きく見えたほうが都合がいい。国民が聞きたくないことをあえて声高にいう必要もないではないか、というわけだ。
7. しかし、こんなことは専門家の言を待つ必要もない。われわれ自身の学校生活を
振り返れば思い当たることである。
8. それなのに、親たちは受験産業の「学習能力は
伸びる」というかけ声に
踊らされて、子供を遊ばせるべき時期に
塾に通わせる。有名中には入れなくても、公立中に行けるのだから落ちてもともと、などと思うなかれ。その子の失ったものは大きい。傷ついたプライドを
癒すのは大人でも大変な作業だ。運よく合格したとしても、その学校生活は、それまでに
払った
犠牲に見合うものといえるのかどうか。∵
9. 意思決定の未熟な子供に深夜まで勉強をさせるのは
壮大なるムダだ(たとえ希望校に合格したとしても)。教育で人間の素質が
伸びるということはあり得ない。教育には、そんな
魔法のような力はない。大学入学が目標なら、高校の段階で自分で判断させるのが最適だ。そのころには自分の能力も適性も
漠然とながらわかっている。納得ずくの努力は、自立心を
培う。
10. 進学
塾通いにはまた、次のような
恐ろしさがある。それはコミュニティーの
核の一つである公立校の
地盤沈下の下地になっているからだ。進学
塾通いの生徒は、学校生活において消極的な姿勢になりがちだ。大手のある進学
塾では公然と「学校では手を
抜け」と親子に
勧めている。「とくに体育。運動会なんかで
頑張るのは、
愚の骨頂」というわけだ。リーダーになるべき子供たちが(その親も)上の空の状態なのに、
魅力ある学校になんかできるわけがない。
11. いま、
普通の公立中学校が
抱える問題は、
迎え入れる母集団に素質のある子が
抜けているうえ、有名中学不合格組を
抱えていることだ。不合格組は
挫折感を処理できず、問題行動に走る子も多い、という。生徒の母集団の力が弱まった学校をもり立てるのは容易なことではない。だから、親は子供を私立に
駆り立てる。
12. この
循環を断ち切るのは簡単だ。親が常識を
取り戻せばいい。午後十時、十一時に子供が
塾のかばんを背負って街を歩いているのは異常だと思うささやかな常識を、だ。
13. (月刊「
致知」石山
茂利夫氏の文章より)
長文 9.1週
1. 二十年ぐらい前から、私は読書日記をつけています。それを見ますと、これまでに
感銘を受けた本は、四書五経をはじめとして枚挙のいとまがありません。
2. その中で一冊を挙げるとすれば、クリスチャンである私は聖書としたいところです。が、あえて
推薦したいのは、家内と私が共に
感銘を受けた
遠藤周作の『
沈黙』です。
3. “
沈黙”といえば、キリスト教徒は、
即座に
十字架上のキリストを思い出します。キリストは「何ぞ我を見捨てたもうや」と
叫びますが、ついに神の救いは現れません。これを神の“
沈黙”といっています。
4. 実は、私は若いころからこの“
沈黙”に関して疑問を持っていました。その
赤裸々で根源的な疑問に人間味のある答えを出してくれたのが、
遠藤周作の『
沈黙』だったのです。
5. 昭和四十七年に、私は住友銀行のロンドン支店に
赴任しました。イギリスで、私は宗教上の
悩みを
抱えるようになったのです。英国の歴史を
遡(さかのぼ)ると、宗教への疑問は増すばかりでした。
6. 一つは、
女狂いで有名な国王へンリー八世です。
彼は宗教上
離婚が認められないということで、七人のお
妃を次々と殺害して
結婚を重ねたといわれています。
彼のお城には、七人のお
妃のドレスが今でも物悲しく
陳列されていますが、
彼はカトリック信者でありながら、なぜか罪を問われなかった。
7. さらには、宗教上の対立が激しい、北アイルランド問題があります。私自身、
駐在中に「
汝の敵を愛せよ」といっているカトリックとプロテスタントが
互いに刃を向け合っている事実を目のあたりにしました。次第に、私の中には「神は果たして人間を救ってくれるものだろうか」という思いが頭をもたげてきたのです。そうした問題と相まって、“
沈黙”についても疑問は深まるばかりでした。そんなとき、タイトルに引かれてふと手にしたのが『
沈黙』です。読むと、まさに目から
鱗が落ちる思いでした。∵
8. 作者も主人公を通して「神は果たして存在するのか」と問いかけていました。
遠藤さんは、キリスト教徒として、私と同じ問題を共有していたことを、ひしと感じたのです。
9. 小説は、「ローマ教会に一つの報告がもたらされた」という書き出しで始まります。
鎖国の日本に、三人の若いポルトガル人の司祭が日本上陸を果たした、その報告の形をとっています。
10. 当時の日本は、キリシタン禁制で島原の乱が
鎮圧されたばかりですから、命をかけた日本上陸でした。
彼らは間もなく
捕らえられ、
過酷な
拷問の責め苦に
遭い、背教を強いられるのです。
11. そして
踏絵に足をかけるとき、
12.「その(キリストの)顔は今、
踏絵の木のなかで
磨滅し
凹み、
哀しそうな眼をしてこちらを向いている。(
踏むがいい)と
哀しそうな眼差しは私にいった」。「主よ。あなたがいつも
沈黙していられるのを
恨んでいました」
13.「私は
沈黙していたのではない。
一緒に苦しんでいたのに」
14. 作者は、キリシタン禁制という
信仰のけわしさの中で、キリストは
踏絵で
踏まれつつ
棄教者をゆるしていたのだ――という一つの答えを提示することでカトリックの「
普遍性」を問いかけています。私にとっての宗教とは、生きるための一つの指針であります。その思いを強くひびかせてくれたのが『
沈黙』だったのです。
15. (月刊「
致知」
伊藤朝夫氏の文章より)
長文 9.2週
1. たとえば、歴史は数多くの宗教上の
殉教者を出している。キリスト教ではそもそもキリスト自身が
殉教者である。そのあとに数多くの
殉教者が続いたことは、聖書や数々の
文献におびただしく記録されている。
2. 十字軍はなぜ成立したのか。キリスト教徒であるヨーロッパ人がアラブ人が住んでいるところに
攻め込み、
占領しようとしただけではないか、という見方もあるが、それだけのことではるばるアラブの地に出かけ、命を
賭けて戦う十字軍は成立しない。キリストにまつわる聖地が異教徒の手にあるのは
耐えがたいと感じ、それをキリスト教徒の手に
奪い返すことは命よりも価値があることだと信じる人びとがいたから、十字軍は成立したのである。
3. キリスト教徒ばかりではない。仏教徒も数多く
殉教した。織田信長と
対峙して殺された一向宗門徒など、万を
超える仏教徒たちが
殉教している。
4. これらの人びとはどうして死んでいったのか。命より重いものがある、命より尊い価値がある、と信じたからにほかならない。そう信じたからこそ、その価値に
賭け、
殉じたのである。
5. 宗教上の
殉教者だけではない。歴史には
英雄や
偉人とされる人がたくさんいるが、これらの人びとの
事蹟をたどると、ほとんどが命以上に尊い価値があることを信じ、その価値に
殉じた人びとであることに気づく。
6. 遠く時代をさかのぼる必要もないし、ヨーロッパやアメリカに例を引くまでもない。そういう人は私たち日本人の身近にたくさんいる。
7. たとえば、
明治維新の志士たちである。
彼らは
維新を
成し遂げることが、命以上に価値のあることだと信じたのだ。だからこそ、命を的に活動し、
殉じたのである。そして、
維新を
成し遂げることに命以上の価値を信じた
彼らの
活躍があったからこそ、
明治維新は成ったのである。∵
8. 日清日
露の戦争もそうだった。国のために戦うことが命以上に価値のあることだと信じる日本人がたくさんいた。そして、
勇敢に戦い、その価値に
殉じた。だからこそ、日本は有色人種の国で
唯一、白人国家の植民地にされることを
免れることができたのである。
9. このように見てくると、洋の東西を問わず、命より価値のあるものがあるというのはごく当たり前の
普遍的な原理であり、人間はこの原理をテコにして生きてきたし、歴史を回転させてきたことがわかる。
10. (月刊「
致知」
渡部昇一氏の文章より)
長文 9.3週
1. 知り合いの内科の医者が言うことにゃ、
2.「長生きの基本的な
秘訣は、血液がサラサラしていることだね」
3.というんです。これはどういうことかというと、血液がネバネバしてくるのが短命のもとだということなんです。血液がねばってくると、高血圧、ガンなどの諸病のもとになる。だから、自分の血からねばり気をとるのが、成人病を防ぐコツだと言うのです。
4.「では、どうすりや、血はサラサラになるの?」
5.と聞くと、「くいものだよ。日常のくいものを変えるのさ」という返事です。では、どんな食物かというと
6.「まず、肉を止めるんだね。魚にするんだ。豆、
芋、菜っ葉などのあっさりした味つけのものにする。グルメっていうやつ、あのうまいもん探しに夢中になっているのは、死に急いでいるようなもんだよ」
7. なるほど、
旨いものに
淫していると、命までも危なくなってくるんだなあ、と思い至ったわけです。
8. といって、では、肉も砂糖も酒も絶対に止めて、というのもいかがなものでしょうか?
9. ごく少量にするまでは良いのですが、完全に食べないというと、これも「止める」ことに
淫していることにはならないでしょうか?
10. こうして考えてみると、ストレスとは、どうも、何かに
淫し始めたあたりから発生し始めるようでもあります。
11. 考えてみれば、あれもほどほどに、これもほどほどに、と、すべて無事
平穏ばかり願って生きるのも、何か老人の
知恵ばかりに終始していて、ちょっと面白くないような気もします。『論語』にも、「
吾、七十にして、心の欲する所に従えども、
矩をこえず」とありますが、
孔子さまといえども、こういう境地に
到達したのは七十
歳で、それまでは大いにのりを
越え過ぎて、失敗と
後悔多き人生だったのではないでしょうか?
12. 人間何事によらず、夢を持ち、その達成に
懸命になると、しばしば、その言行が
傾(かぶ)いてくることがあります。
換言すれば、
奇行が多くなってくるのです。しかし、これも血の気の多い若いうちなればこそ、多少の行き過ぎもやむを得ないし、また面白味のあるところではないでしょうか。∵
13. ただ、ここでそのストッパーとして一言。「その行き過ぎは、はたを楽にするという一線においてとどめられなければならない」。すなわち、「はたを苦にする働きであるならば、その働きは
淫したものとして、改められなければならない」ということです。なぜならば、「はた苦」は、自分に近い者ばかりでなく、自分自身の幸福感をも損なってしまうからなのです。
14. 人生、自分のやりたいことを
貫けるのは、たしかに素晴らしいことですが、それにしても、それは、「はた苦」を
考慮した上のことでなければ、良く生きるのは難しいようです。
15. 昔、ある
お婆さんが面白いことわざを言ったのを覚えています。ここに
紹介しておきましょう。
16.「人もよかれ。我もよかれ。我は人より、ちょっとよかれ」
17. (月刊「
致知」無能唱元氏の文章より)