長文 9.2週
1. たとえば、歴史は数多くの宗教上の殉教者じゅんきょうしゃを出している。キリスト教ではそもそもキリスト自身が殉教者じゅんきょうしゃである。そのあとに数多くの殉教者じゅんきょうしゃが続いたことは、聖書や数々の文献ぶんけんにおびただしく記録されている。
2. 十字軍はなぜ成立したのか。キリスト教徒であるヨーロッパ人がアラブ人が住んでいるところに攻め込みせ こ 占領せんりょうしようとしただけではないか、という見方もあるが、それだけのことではるばるアラブの地に出かけ、命を賭けか て戦う十字軍は成立しない。キリストにまつわる聖地が異教徒の手にあるのは耐えがたいた    と感じ、それをキリスト教徒の手に奪い返すうば かえ ことは命よりも価値があることだと信じる人びとがいたから、十字軍は成立したのである。
3. キリスト教徒ばかりではない。仏教徒も数多く殉教じゅんきょうした。織田信長と対峙たいじして殺された一向宗門徒など、万を超えるこ  仏教徒たちが殉教じゅんきょうしている。
4. これらの人びとはどうして死んでいったのか。命より重いものがある、命より尊い価値がある、と信じたからにほかならない。そう信じたからこそ、その価値に賭けか 殉じじゅん たのである。
5. 宗教上の殉教者じゅんきょうしゃだけではない。歴史には英雄えいゆう偉人いじんとされる人がたくさんいるが、これらの人びとの事蹟じせきをたどると、ほとんどが命以上に尊い価値があることを信じ、その価値に殉じじゅん た人びとであることに気づく。
6. 遠く時代をさかのぼる必要もないし、ヨーロッパやアメリカに例を引くまでもない。そういう人は私たち日本人の身近にたくさんいる。
7. たとえば、明治維新めいじいしんの志士たちである。彼らかれ 維新いしん成し遂げるな と  ことが、命以上に価値のあることだと信じたのだ。だからこそ、命を的に活動し、殉じじゅん たのである。そして、維新いしん成し遂げるな と  ことに命以上の価値を信じた彼らかれ 活躍かつやくがあったからこそ、明治維新めいじいしんは成ったのである。∵
8. 日清日の戦争もそうだった。国のために戦うことが命以上に価値のあることだと信じる日本人がたくさんいた。そして、勇敢ゆうかんに戦い、その価値に殉じじゅん た。だからこそ、日本は有色人種の国で唯一ゆいいつ、白人国家の植民地にされることを免れるまぬか  ことができたのである。
9. このように見てくると、洋の東西を問わず、命より価値のあるものがあるというのはごく当たり前の普遍ふへん的な原理であり、人間はこの原理をテコにして生きてきたし、歴史を回転させてきたことがわかる。

10. (月刊「知」渡部わたなべ昇一しょういち氏の文章より)