黄イバラ の山 8 月 3 週 (5)
★よく、教え方がよければ(感)   池新  
 よく、教え方がよければ、子供の能力は伸びる、といわれる。だが、伸びるのはその子の持って生まれた能力に応じた学力である。ただし、先に述べたように、伸び方に限りがあるが……。早い話、有名受験塾がなぜ入塾テストを実施しているとお思いだろうか。素質のない子をいくら教えても、有名中学入試の高いハードルを越えさせられないからである。
 どうして、この種の情報がきちんと示されないのか。オフレコの約束で(ほとんどの関係者がそうだった)「知能指数と学力は大いに関連がある」と認めた何人かの教育学者に、「教育改革の柱にいつも入試改革が掲げられるのは教育力に対する幻想があるからだ。それを打ち砕くためにも、その意見を公にしたほうがよい」と迫ったことがある。いずれの学者の答えも同工異曲だった。
 「そんなことをしたら、学界で袋叩きにあいますよ。科学的に証明するのはかなり難しいですし」
 また、文部官僚の多くはこういう表現をした。
 「それをいっちゃおしまいですよ」
 教育力が大きく見えたほうが都合がいい。国民が聞きたくないことをあえて声高にいう必要もないではないか、というわけだ。
 しかし、こんなことは専門家の言を待つ必要もない。われわれ自身の学校生活を振り返れば思い当たることである。
 それなのに、親たちは受験産業の「学習能力は伸びる」というかけ声に踊らされて、子供を遊ばせるべき時期に塾に通わせる。有名中には入れなくても、公立中に行けるのだから落ちてもともと、などと思うなかれ。その子の失ったものは大きい。傷ついたプライドを癒すのは大人でも大変な作業だ。運よく合格したとしても、その学校生活は、それまでに払った犠牲に見合うものといえるのかどうか。∵
 意思決定の未熟な子供に深夜まで勉強をさせるのは壮大なるムダだ(たとえ希望校に合格したとしても)。教育で人間の素質が伸びるということはあり得ない。教育には、そんな魔法のような力はない。大学入学が目標なら、高校の段階で自分で判断させるのが最適だ。そのころには自分の能力も適性も漠然とながらわかっている。納得ずくの努力は、自立心を培う。
 進学塾通いにはまた、次のような恐ろしさがある。それはコミュニティーの核の一つである公立校の地盤沈下の下地になっているからだ。進学塾通いの生徒は、学校生活において消極的な姿勢になりがちだ。大手のある進学塾では公然と「学校では手を抜け」と親子に勧めている。「とくに体育。運動会なんかで頑張るのは、愚の骨頂」というわけだ。リーダーになるべき子供たちが(その親も)上の空の状態なのに、魅力ある学校になんかできるわけがない。
 いま、普通の公立中学校が抱える問題は、迎え入れる母集団に素質のある子が抜けているうえ、有名中学不合格組を抱えていることだ。不合格組は挫折感を処理できず、問題行動に走る子も多い、という。生徒の母集団の力が弱まった学校をもり立てるのは容易なことではない。だから、親は子供を私立に駆り立てる。
 この循環を断ち切るのは簡単だ。親が常識を取り戻せばいい。午後十時、十一時に子供が塾のかばんを背負って街を歩いているのは異常だと思うささやかな常識を、だ。

 (月刊「致知」石山茂利夫氏の文章より)