黄イバラ の山 8 月 2 週 (5)
★私は大田区のある町工場で(感)   池新  
 私は大田区のある町工場で、大企業から持ち込まれた試作品づくりの現場に出くわしたことがある。
 大企業が示した設計図の問題点が指摘される。この設計図では期待されるようには作動しない、この部分は曲線をもっと深くしないと噛み合わない、といったふうである。指摘するのは、作業衣を着た町工場のおっさんだ。
 すぐに発注元の大企業に問い合わせがなされる。多分大学出の設計専門家がコンピューターを駆使して書き上げた設計図なのだろうが、町工場の面々が指摘したとおりに、たちまち修正される。つまり、大企業の示した設計図は使いものにならなかったのだ。
 この部分の材料になる鋼材は、どこそこでストックしているはずだ、ここの削り出しはだれだれのところが得意だ、この旋盤はあそこにやってもらったほうがいい、ということで、町工場の面々は自転車に乗って飛び出していく。ここに出てくる「どこそこ」も「だれだれ」も「あそこ」も、すべて近隣の町工場である。
 コンピュータで情報を検索することもなく、電話さえも使わず、自転車で行き来しているうちに、たちまち段取りができてしまう。これはさまざまな技術を持った町工場が集積し、お互いにいわゆるツーカーの関係を保っていればこそである。
 そして、必要な材料や見事に加工された部分部分が寄せ集められ試作品が形をなしていく。
 私は息をのむ思いでことの成り行きを見つめていた。そして、経済大国日本の基盤となったモノづくりを根底で担った層がどこにいたのか、はっきりと見た思いがした。
 しかも、その層はいまだに健在なのである。
 時代は確かに変わる。だが、変わってはならないものもある。その一つがモノづくりではないだろうか。
 過去の歴史にモノづくりをしなかった社会、モノづくりをやめてしまった社会がある。そして、そういう社会は必ず荒廃し、衰亡している。社会の根底にモノづくりの基盤を据え、それを保持しているかどうかは、その社会の未来を占うバロメータといえるだろう。∵
 日本にはまだ、モノづくりを支える層が健在なのだ。これを時代に取り残されたなどと認識したら、大きな過ちを犯すことになる。
 経営学的視点からの批判にいたっては、見当はずれというべきだろう。企業規模のふくらみにのみ評価の基準を置いて、成功不成功を判断することが唯一の物差しになっている悪癖のしからしむるものである。
 経営学的なものには最初から関心がなく欠落していたからこそ、技術の狭い分野を特化して、モノづくりの基盤を担うことができたということを知らなければならない。
 町工場の人びとに話を聞くと、決まって出てくるのが、モノづくりの喜びである。
 鋼材から思いどおりの曲面を削り出すことができた。われながらほれぼれするような研磨ができた。そういう話をするときの彼らの顔には、至福といっていい喜びが溢れ出す。町工場の人びとを満たしているモノづくりの喜びに接するとき、私もまた幸福に感じずにはいられない。そして思うのである。モノづくりの喜びに満たされている町工場の人びとは、日本の宝だ、と。

 (月刊「致知」中沢孝夫氏の文章より)