黄イバラ の山 8 月 1 週 (5)
★私が森信三先生を知ったのは(感)   池新  
 私が森信三先生を知ったのは二十八年前の昭和四十三年、神戸市立魚崎(うおざき)中学校の教頭になったときでした。私たち新任の教頭たちの研修会に、森先生が講師として来られたのです。
 ところが、先生は一時間も遅刻され、会場である市役所の会議室にみえたのは午前十一時。もう残り時間は三十分しかありません。そこで先生がお話しになったことは、
 「みなさんの学校ではゴミが落ちていませんか。落ちている紙くずに気がつかないで、子供の心がわかりますか。このゴミをね、誰に命じるのでもなく、みなさんが拾ってください。それも、黙って黙々と拾うのです」。
 ゴミ拾いのこと、ただそれだけでした。
 会場には六、七十人ほどいましたが、「遅れて来たうえに、ゴミ拾いの話とは何ごとだ」と非難の声もあがったようです。しかし、私にはなぜか理屈抜きに心に響いてきた言葉でした。
 翌朝から紙くず拾いを始めました。朝早く学校に行き、教員室の机にカバンを置くと、そのままの恰好で校地の周りなどを歩いては黙ってゴミを拾いました。このことは昭和六十二年に定年退職するまで続きます。私にとっては単なるゴミ拾いではなく、教員生活の支えともなった大きな学びだったのです。
 こんなことがありました。問題校のT中学校に校長として赴任した朝、校庭のゴミ拾いをしていた私に、数人の男子生徒が十メートルもない距離から石を投げてきたのです。
 私は、平静を装って立ち上がり、彼らと対面しました。「うるさい」、「校長のバカ」。そんなことを叫んで、彼らは走り去りました。
 校長に石を投げてくるとは……初めての体験でした。しかし数日後、彼らの行為の意味を考えているうちに、ハタと思い当たったのです。∵
 彼らは石を投げてきた。でも、私の体のどこにも石は当たっていない。石を当てようと思ったら、全部命中させられる距離だった。では、なぜそうしなかったのか。あれは私へのサインではなかったか――と。
 先生がたにその生徒たちのことを聞いてみると、学業の成績が悪く、漢字もあまり書けないし、 掛け算の九九もおぼつかないとのこと。また欠席も目立ちます。そういう状態ですから、三年生にもなっていまだに進路も決まっていない。「やっぱり、そうか」と思いました。彼らは新しくきた校長に「こんな自分たちをなんとかしてくれ」と訴えてきたのではなかったか。

 (月刊「致知」田中繁男氏の文章より)