黄イバラ の山 7 月 3 週 (5)
★孟子は、孔子より遅れて(感)   池新  
 孟子は、孔子より遅れてこの世に生をうけた中国古代の思想家だが、かれに、
「忍びざるのこころ」
という考えがある。忍びざるのこころというのは、
「他人の不幸や悲しみを、そのままみるに忍びないこころ」
をいう。
 たとえば、川のほとりを歩いている時に、車椅子の人や老人や、あるいは小さな子供がいましも落ちかかっている光景を目にしたとする。通りかかった人は、普通の人間ならすべて、
「忍びざるのこころ」
を持っているから、すぐ、
「助けなければ」
と思って走り出す。そのときためらって、
「助けなかったら誰かにあとから批判されるだろうか。それとも助けたら、家族がお礼に何かくれるだろうか」
などというさもしいことは考えない。無計算で駆け出していく。それが孟子の、
「忍びざるのこころ」
である。
 しかし、孟子はこの忍びざるのこころについてこういうことをいう。
「忍びざるのこころは、人間がつねに持たなければいけないから、これを恒心と名づけよう。しかしこの恒心も、あるものがなければ保てない。あるものとは恒産をいう」
 と説明して、有名な
「恒産なければ恒心なし」
といいきった。∵
 いまリストラにあって、
「おまえはあしたから、会社にこなくていい。自宅待機だ」
といわれたとする。そのビジネスマンの子供が、春から私立の大学に行っている。学費が高い。これをどうするか。また、家を建てたローンが終わっていない。返済計画には、本給だけではなく時間外勤務手当や旅費や、ボーナスなどの雑給もすべてぶちこんできた。自宅勤務になると、これらのものも支給されないという。
「いったいおれと家族は、どうやって生きていけばいいんだ?」
というような、切実な悩みに襲われている人間に、
「おまえは少し、忍びざるのこころが足りないぞ。もっと他人の悲しみや苦労に同情しろ」
というのは、いうほうが無理だ。
 いまから二千数百年前に、孟子はこういう人情の機微をすでにいい当てているのだ。

 (月刊「致知」童門冬二氏の文章より)