長文集  3月2週  ★私たちはよくテイストという言葉(感)  1e-03-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:22
 私たちはよくテイストという言葉を使いま
す。好みといったような意味ですが、世間一
般の言い方に従えば「センス」という言葉に
近い意味に使っています。センスとは何かと
いえば「違いを見分ける才能」だと思います

 AとB、二つの選択肢があるとき、見た目
はまったく変わらな い。あるいはどうみて
もAのほうがよさそうにみえる。そういうと
きでも背後に潜む微妙な違いのようなものを
感知して、「Bがい い」というのがセンス
です。いずれにしろ極上のセンスが常識的で
あることはめったにありません。
 あるいはカンといわれるもの。これもセン
スの一つです。勝負カンのある人は勝負セン
スがいい。いずれにしろ科学者はテイストが
よくないと、なかなかよい業績が上げられま
せん。「科学者の成否はテイストで決まる」
という人もいるくらいです。
 私自身は、自分が「テイストがいい」と胸
を張っていうほどの自信はありませんが、と
きにわれながら「いいのではないか」とうぬ
ぼれることもあります。パスツール研究所と
ツバ競り合いをしていたときのことです。
 こちらがまだ遺伝子の解読に着手もできな
いでいるのに、パスツールがすでに八割がた
終わるところまで進んでいたことは前述しま
した。あのとき実はもっとすごいことになっ
ていたのです。
 パリからドイツに飛んだ私はハイデルベル
ク大学の友人を訪ね、話を聞いてみると、パ
スツールだけではなくアメリカのハーバード
大学でも同じテーマでやっていることがわか
りました。おまけに「うちもやってるよ」と
ハイデルベルクの友人にもいわれました。進
み具合を探ってみると、私たちよりはるかに
進んでいる様子。パスツール、ハーバード、
ハイデルベルクと並んだら、この世界では横
綱、大関クラス。こっちは十両からやっと幕
内に上がったくらいなのです。
 こうなると、もう絶望的です。そういう状
況下で中西重忠先生に出会い、先生の協力を
得たのですが、そのときのことをもう少し詳
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しく話しますと、中西先生は私の知らないあ
ることを教えてくれたのです。
「実は遺伝子暗号というのは九分九厘読めて
も、最後でつまずくことがあるんですよ。そ
れにいまさらパスツールがヒトだからって、
こっちがサルでやってどうするんです。絶対
あきらめないでやるべきです。なんなら私の
研究室で……」ということだったのです。
 問題はこの瞬間です。このとき私が「そう
いっていただくのはうれしいのですが、ここ
は潔く撤退して……」と断っていたら、それ
でおしまいでした。私はそのときどう思った
か。いま考えると不思議ですが、中西先生の
応援を得たことで「天の味方がついた。これ
で勝った!」と直感したのでした。冷静に考
えれば、不利なはずの選択肢をそのとき選ん
でいたことになります。
 そして私は大急ぎで帰国し、それまでいく
らやってもダメだったヒト・レニン遺伝子の
取り出しに成功しました。これは中西研究室
のおかげでした。
 そうなるとみんなの目の色が違ってきます
。筑波から京都に移った大学院生たちは下宿
にも帰らず、昼夜兼行で研究に没頭。一種の
興奮状態のなかで、三カ月で一挙に暗号を読
み切ってしまったのです。
 世界初のヒト・レニンの遺伝子暗号解読は
、大学院生の不眠不休の努力とハイデルベル
クの酒場で私が九九%の負け戦を「勝っ  
た!」と思ったことにあるのです。遺伝子O
Nの世界が火事場のバカ力のように出てきた
例といえるでしょう。

 (村上和雄著 「生命の暗号」より)