黄エニシダ の山 2 月 1 週 (5)
★近時、大学教師の悩みの種は(感)   池新  
 近時、大学教師の悩みの種は、授業中の私語の多さである。私はいつも最初の講義のとき、「オシャベリはいけない」と学生たちに厳しい態度を示してから講義に入ることにしている。
 問題は私語ばかりではない。昨年あたりから、教室に新現象が起こり始めた。四月、いつものように私語禁止を言い渡してから講義に入った。学生たちは静かに聞いている。今年の学生は質がよいのかと、私はうれしくなった。が、ふと見ると、前から三分の一あたりのところで、机上に英語の教科書と辞書を広げている者がいる。ちなみに私の授業は「西洋精神史」であって、英語ではない。だから、彼女の行為は「内職」である。
 授業中の内職は、別に新しい現象ではない。だが、内職は教室の後ろのほうで、机の下でこっそりとやるから内職というのである。前のほうで、しかも机の上で堂々とやる内職は初めて見た。つまり、彼女には、自分が悪いことをしているという意識がまったくないのである。
 こういう学生を叱るのは実に骨が折れる。「なぜ悪いのか」をわからせるのがひと苦労なのだ。もともと内職が悪いことだとは毛頭思っていないから、注意すると、ただポカンとして私の顔を見つめる。彼女らはおそらく、小学校でも、中学校でも、高校でも、また家庭でも、そうしたことで注意されたことがないのであろう。
 同じことはアクビについても言える。授業中にアクビをするなと言うと、学生たちは不思議な顔をする。「生まれて初めてアクビを注意されました」と言わんばかりである。
 こんなことは昔なら一言、「礼儀を重んじなさい」と言えば済んだ。それがいまは通じない。「いけないこと」を一つひとつ示し、「なぜいけないのか」を丁寧に説明しなければならないのである。原理原則に従う行動様式、思考様式を持っていないから、原理を示しても無駄なのだ。
 評論家やジャーナリストは、こういうタイプの人間を「指示待ち人間」「マニュアル世代」などと名付けるが、現象だけしか見ない、皮相なとらえ方である。彼らは単に、指示を待たなければ、マニュアルがなければ行動できないというのではなく、抽象的な原理に従って行動することができないのである。つまり、自分の中に行動の原理原則がないのだ。いわば、自分の中心に背骨がないようなものである。それゆえ、本質を見るならば、こういう型の人間はずばり「背骨のない人間」「無脊椎人間」とでも呼ぶべきなのである。
 行動の原理原則の中でいちばん大切なのが「善悪」の原理である。そして、これを教えるのは主として父親の役割である。母親は、個々の行為について「よい」「悪い」を注意するが、父親は、そもそも世の中にはして「よい」ことと「悪い」ことがあるのだという原理を教えるのである。
 ところが、いまは父が父の役割を果たしていない。その結果、善悪の感覚のない人間が成長してしまう。たとえ「よい」「悪い」の区別を教えられたとしても、その基準はせいぜい「他人に迷惑をかけない」「他人を傷つけない」という程度だから、礼儀やマナー、あるいはその行為が「美しい」か「醜い」か、「他人に不快感を与えない」かどうかという視点が欠落してしまう。だから、遅刻も内職もアクビも居眠りも、すべて「悪くない」ということになってしまい、たまたま注意を受けると意外だという顔をするのであろう。

 (「致知」九七年七月号 林道義氏の文章より)