1.
藤原道長は五番目の子だったので、父の
位である
摂政や
関白を
継ぐことができるとはだれも思っていませんでした。しかし、
子供のころから
負けず嫌いで、気が強く、また
胆のすわったところのある道長は、のちに
強運も
手伝って、
事実上、
天皇以上の
権力を
持つ摂政・
関白の
位につき、
全盛をきわめました。そして、ほこらしげに「
この世をばわが
世とぞ思う
望月のかけたることもなしと思えば」(
この世は
私の
世だと思うよ。今日の
満月のように
欠けているところがないと思えば)という歌をよみました。
権力をほしいままにした道長は、
莫大な
財産を
持っていたので、それを生かし、
貴族の
文化、
平安文化をささえました。
漢詩や
和歌、
絵巻物、そしてかな文字による文学は、この
時代に大きく
発展しました。
紫式部の「
源氏物語」や
清少納言の「
枕草子」などもこの
時代の
作品です。
2. さて、
子供のころの道長はどんなふうだったのでしょう。兄たちとともに父の前に
呼ばれた時のことです。父
兼家は、できのよい
公任という自分のいとこの
息子を引き合いに出し、「お前たちは、
公任のかげもふめんぞ」と
叱咤激励しました。兄たちは、うなだれて聞いていましたが、道長だけは、「あいつの
影なんか、たのまれてもふむもんか。
私だったら、顔をふんづけてやる」と言ったそうです。なんという
負けん気の強い
性格でしょう。
3. また、道長は十七
歳の時、
仕えていた
天皇の
発案で
肝試しをしました。雨のふりしきる
真っ暗な夜、
怖い話を聞いた後、
天皇は、そこにいた三人にそれぞれ
違う場所に一人でいってくるように言いました。
他の二人はおそるおそる出かけたと思ったら、すぐに「ぶきみな声が聞こえた」とか「
怪物が出た」などと
叫びながら
舞い戻ってきました。道長はと言うと、
指示された
大極殿という
場所に一人で行き、
証拠として
柱の木を小刀でけずりとってきたのです。ま∵さか、一人で行けるまいと思った
天皇が
翌日調べさせてみると、
削り取った
木片はぴたりと
柱のえぐれた
部分に合いました。
天皇はその
勇気におどろきました。
4. このように、
積極的で
怖いもの知らずの道長は、人生を
前向きに生きるすべを
幼いころから知っていたかのようです。だからこそ、
強運を
呼び込むことができたのでしょう。父の後を
継いだ一番上の兄
道隆は、
関白になったものの
伝染病で
亡くなってしまいました。その兄の後を
継いだ
次の兄
道兼もまた同じ
伝染病で、
関白になってたった一週間で
命を
落としました。時の
天皇はそのあとの
関白を
決めるのに
迷っていました。すると、
天皇の母が、自分の弟でもある道長を強く
推薦しました。
5.
出世する道は長いと思っていた道長でしたが、三十
歳のころには
政府の
第一人者となっていました。「
望月」の歌は道長が五十三
歳のころに
詠んだものです。
6.
言葉の森
長文作成委員会(φ)