長文集  11月2週  藤原道長は  00u-11-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/11 11:44:09
 藤原道長は五番目の子だったので、父の位
である摂政や関白を継ぐことができるとはだ
れも思っていませんでした。しかし、子供の
ころから負けず嫌いで、気が強く、また胆(
きも)のすわったところのある道長は、のち
に強運(きょううん)も手伝って、事実上、
天皇以上の権力を持つ摂政・関白の位につき
、全盛をきわめまし た。そして、ほこらし
げに「この世をばわが世とぞ思う望月のかけ
たることもなしと思えば」(この世は私の世
だと思うよ。今日の満月のように欠けている
ところがないと思えば)という歌をよみまし
た。権力をほしいままにした道長は、莫大な
財産を持っていたの で、それを生かし、貴
族の文化、平安文化をささえました。漢詩や
和歌、絵巻物、そしてかな文字による文学は
、この時代に大きく発展しました。紫式部の
「源氏物語」や清少納言の「枕草子」なども
この時代の作品です。
 さて、子供のころの道長はどんなふうだっ
たのでしょう。兄たちとともに父の前に呼ば
れた時のことです。父兼家(かねいえ)は、
できのよい公任(きんとう)という自分のい
とこの息子を引き合いに出し、「お前たちは
、公任(きんとう)のかげもふめんぞ」と叱
咤激励しました。兄たちは、うなだれて聞い
ていましたが、道長だけは、「あいつの影な
んか、たのまれてもふむもんか。私だった 
ら、顔をふんづけてやる」と言ったそうです
。なんという負けん気の強い性格でしょう。
 
 また、道長は十七歳の時、仕えていた天皇
の発案で肝試し(きもだめ)をしました。雨
のふりしきる真っ暗な夜、怖い話を聞いた 
後、天皇は、そこにいた三人にそれぞれ違う
場所に一人でいってくるように言いました。
他の二人はおそるおそる出かけたと思った 
ら、すぐに「ぶきみな声が聞こえた」とか「
怪物が出た」などと叫びながら舞い戻ってき
ました。道長はと言うと、指示された大極殿
(だいごくでん)という場所に一人で行き、
証拠として柱の木を小刀でけずりとってきた
のです。ま∵さか、一人で行けるまいと思っ
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た天皇が翌日調べさせてみると、削り取った
木片はぴたりと柱のえぐれた部分に合いまし
た。天皇はその勇気におどろきました。 
 このように、積極的で怖いもの知らずの道
長は、人生を前向きに生きるすべを幼いころ
から知っていたかのようです。だからこそ、
強運(きょううん)を呼び込むことができた
のでしょう。父の後を継いだ一番上の兄道隆
は、関白になったものの伝染病で亡くなって
しまいました。その兄の後を継いだ次の兄道
兼(みちかね)もまた同じ伝染病で、関白に
なってたった一週間で命を落としました。時
の天皇はそのあとの関白を決めるのに迷って
いました。すると、天皇の母が、自分の弟で
もある道長を強く推薦しました。
 出世する道は長いと思っていた道長でした
が、三十歳のころには政府の第一人者となっ
ていました。「望月」の歌は道長が五十三歳
のころに詠んだものです。

 言葉の森長文(ちょうぶん)作成委員会(
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