1言葉というものは、具体から抽象へと発達するものだと私はいったが、それはそのまま思考の成長の過程でもある。その成長過程は言葉や思考の「乳離れ」といってもいい。
そもそも言葉とは命名から出発した。2子供が生まれると名前をつけるように、人間は自分とかかわりのあるものに片っ端から名を与え、こうして言葉はつぎつぎにふえていった。したがって、当初、言葉はかならず現実の具体的な事物に対応していた。3けれども、もし言葉がそれをあらわす現実の個々の事物と一対一の対応関係をつづけていったなら、言葉は無限にふえつづけねばならない。ひとたび、そうした一般化に気付けば、言葉はすくすくと成長する。4一般化したものをさらにまとめて一般化し、それをもっと広い類概念にくくってゆくというふうに。そして、この一般化によって言葉も思考ももの離れし、現実の個々の事物から独立して、言葉独自の世界をつくりだすことに成功したのである。
5具体的な動作、あるいは事物の状況や性格についても同様であった。たとえば、考えるという動詞は「考え」という名詞に抽象されることで実際の動作から離れてひとつの概念になり、美しいという性状は「美しさ」というふうに一般化されることによって具体的な対象から抜けだして独立の観念へと成長した。6「考える」から「考え」への変質は、言葉のうえではきわめてかんたんのように思えるであろう。「美しい」から「美しさ」への一歩前進はいとも容易にみえるかもしれない。けれども、その一歩こそ、千鈞の重みを持っていたのである。7それは新しい概念の獲得であり、高度な観念の誕生であった。
どのような民族にあっても、言葉はこのような形で育ち、思考はそれとともに発展した。つかむという動作はドイツ語でベグライフェンbegreifenという。8何か物をつかむというその具体的な動作から、やがてベグリフBegriffという抽象名詞が生まれた。ベグリフというのは「概念」のことであり、つまり、手で物をつかむように、頭で事物をつかむ、それこそが「概念」なのである。
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